EP 6
『AI疑惑の元奨励会員』
三月下旬の朝、築四十年の木造アパートの薄いトタン屋根を、冷たい春時雨が激しく叩いていた。
隙間風が障子を小さく揺らし、湿気を含んだ冷気が、片付いた六畳間の畳をじっとりと冷やしている。
加藤清麿は、ちゃぶ台の前に正座したまま、握りしめたスマートフォンの画面を食い入るように見つめていた。
画面から放たれる青白い光が、青ざめた清麿の顔を不気味に照らし出している。
指先が小刻みに震え、スクロールする親指の腹には、冷たい脂汗が滲んでいた。
「……また、これかよ」
喉の奥から、乾いた掠れ声が漏れる。
画面に映し出されていたのは、SNSのタイムラインと、大手ネット掲示板の将棋板に乱立したスレッドの数々だった。
光星杯一回戦で新進気鋭の吉沢亮太四段を六十四手で粉砕してから数日。当初の「元神童の劇的な復活」という称賛の嵐は、ここ二十四時間で、どす黒い濁流のような疑念とバッシングへと姿を変えていた。
『【衝撃】加藤清麿アマ、吉沢戦の「端角」「自陣歩」が最新AIの一致率98%超えと判明!?』
『四年ブランクの30歳無職がプロを一瞬で捻れるわけないだろwww』
『ネット将棋で無双してた「K-Zero」と指し回しが完全に一致。完全にソフト指し(不正AI利用)だろ』
『金属探知機通ったって、超小型の骨伝導イヤホンとか靴底に通信機仕込めば余裕でカンニングできるよな』
『奨励会を年齢制限でクビになった負け犬が、どうしてもプロになりたくて魔が差したんだろ。みっともねえ』
『連盟は今すぐ調査しろ! 吉沢四段が可哀想すぎる!』
無数の匿名のアカウントから吐き出される、鋭利な悪意の刃。
胃の腑を直接鷲掴みにされ、冷たい氷水を注ぎ込まれたような吐き気が込み上げてくる。
四年前の記憶が、鮮烈なフラッシュバックとなって脳裏に甦っていた。
二十六歳で三段リーグを強制退会となり、社会へ放り出されたあの日々。
スーパーの面接室で履歴書をペラペラとめくられ、『世間を舐めないでくださいよ』と嘲笑された面接官の冷たい目。
コンビニのバイト先で、理不尽な客から『お前みたいな使えないおじさん、社会のゴミだな』と浴びせられた怒号。
周囲のすべてが自分を拒絶し、軽蔑し、排除しようとしていた、あの息の詰まるような暗闇。
(……俺は、また同じ場所に立っているのか?)
プロに勝って、妹の千代が泣いて喜んでくれて、ようやく人間としての呼吸を取り戻しかけたはずだった。
それなのに、勝てば勝つほど、世間は自分を「卑劣な詐欺師」として裁こうとしている。
息が苦しい。胸の奥がぎゅっと縮み上がり、視界がチカチカと白く明滅し始めた。
「……ちょっと。朝っぱらからスマホの画面に向かって遺影みたいな顔してんじゃないわよ、雑魚先祖」
背後から、ピシャリと容赦のない声が飛んできた。
銀と藍色のライダースーツの裾をまくり上げ、和令が片手鍋をちゃぶ台の上にドンと置いた。
鍋の中では、特売のうどんと山盛りのもやしが、わずかな醤油だしの湯気を立てている。
「ほら、朝ごはんよ! 今日はちくわの代わりに、昨日スーパーのタイムセールで手に入れた天かすを大さじ二杯も入れてあげたんだから! 炭水化物オン炭水化物の高カロリー燃料よ、感謝しなさい!」
「……和令。飯どころじゃないんだよ……」
「はあ? 何言ってるのよ。脳みそにブドウ糖を送らないと、桐生対策の定跡アーカイブがダウンロードできないでしょ。ほら、箸を持ちなさい!」
「見ろよ、これ!」
清麿は耐えかねて、スマートフォンの画面を和令の鼻先へと突き出した。
「ネットが……大炎上してるんだよ! 俺がプロ公式戦で不正をしたって、AIをカンニングして吉沢四段を嵌めたって、みんなが俺を叩いてるんだ! 『ソフト指しのクズ』『連盟から追放しろ』って……!」
清麿の叫びに対し、和令は画面を一瞥しただけだった。
そして、心底くだらないものを見るように、細い鼻から大きく「ふん」と息を噴き出した。
「……何これ。原始人どもの遠吠えじゃないの」
「遠吠えですむ話かよ! 疑われてるんだぞ!? 将棋界で一度でも不正のレッテルを貼られたら、二度と盤の前になんて座れなくなる! 編入試験どころか、来週の桐生戦だって中止になるかもしれないんだぞ!」
「中止になんてなるわけないでしょ! 公式戦の対局室で、厳重な身体検査受けて指したんでしょ!? やましいことなんて一つもないじゃない!」
「やましくなくても、世間はそう見ないんだよ! 三十歳の無職で、職歴もなくて、四年間引きこもってた負け犬が、いきなりプロを一瞬で倒したんだ! 誰だって『裏がある』って疑うに決まってるだろ!」
「だったら何よ! 他人が何を言おうと、あんたが自分の頭で考えて、自分の指で駒を動かした事実は変わらないでしょ!」
「お前の端末のデータを暗記して指しただけだろ! 俺自身の実力じゃない! 世間の言ってることの方が、よっぽど正しいんじゃないか……!?」
自嘲と絶望が混ざり合った清麿の叫びが、狭い六畳間に木霊した。
その瞬間――。
――バシィィィッ!!
痛烈な破裂音が室内に響いた。
清麿の右頬が、激しい熱を帯びて跳ね上がる。
「……っ!?」
清麿はよろめき、畳に手をついた。
見上げると、和令が右手を振り抜いた姿勢のまま、仁王立ちしていた。
その肩が激しく上下し、切れ長の瞳には、燃え盛るような怒りの炎が宿っていた。
「……ふざけないでよ、雑魚先祖」
和令の声は低く、震えていた。
「何が『俺自身の実力じゃない』よ。何が『世間の方が正しい』よ……! あんた、あの吉沢戦で、相手が必死に考えて繰り出してきた手を、自分の目で見てないわけ!?」
「それは……見たよ。必死だった……」
「そうよ! 相手は人生懸けてプロになった本物よ! その本物のプロが、盤を挟んで命削って指してきた手を、恐怖に耐えて、プレッシャーで胃を痛めながら、最後まで読み切って指し切ったのは誰なのよ!?」
和令はずいっと清麿の胸ぐらを掴み、鼻先が触れ合うほどの距離まで顔を近づけた。
「未来のデータはね、ただの記号よ! ただの盤面の座標よ! それを頭に詰め込んで、血肉にして、相手の殺気を受け止めながら盤上に出力したのは――加藤清麿、あんた自身の魂でしょ!!」
「和令……」
「三百年後の加藤家がね、どれだけみじめな思いをしてきたと思ってんのよ! 貧乏で、借金まみれで、誰からも見向きもされなくて……! それでも私は、プロ棋士になりたくて、泣きながら盤に向かい続けたわ! あんたがここで『カンニング野郎』って言われて膝を屈したら……私の三百年分の努力まで、全部ただのイカサマになっちゃうじゃないのよ!!」
和令の大きな瞳から、大粒の涙がポロポロと零れ落ちた。
清麿の胸元を握る少女の小さな手が、激しく震えている。
胸の奥を、熱く焼けた杭で貫かれたような衝撃が走った。
怖かったのは、自分だけではなかったのだ。
未来で敗北を重ね、一族の破滅を背負って過去へと跳んできたこの少女もまた、自分と同じように、誰にも認められない孤独と恐怖の中で震えていたのだ。
「……ごめん」
清麿はかすれた声で呟いた。
右頬の痛みが、散り散りになりかけていた正気を鋭く呼び戻してくれる。
「悪かったよ、和令。……俺が、情けなかった」
清麿は和令の震える手の上に、そっと自分の節くれだった手を重ねた。
「俺は、カンニングなんてしてない。お前が命がけで持ってきてくれた未来の答えを、俺自身の力で盤上に指したんだ。……誰に何を言われようと、それだけは絶対に曲げちゃいけないんだったな」
和令は唇をぎゅっと噛み締め、手の甲で乱暴に涙を拭うと、ツンと横を向いた。
「……当たり前よ。分かればいいのよ、バカ先祖」
二人の間に、張り詰めていた空気がふわりと緩んだ。
その時だった。
ちゃぶ台の上に置かれた清麿のスマートフォンが、けたたましい電子音を鳴らして震え出した。
画面に表示された発信元の名前に、清麿の眉がピクリと跳ねる。
『神崎澪』
将棋専門誌の気鋭の記者であり、全国大会でも取材を受けたあの女性記者からだった。
清麿は息を整え、通話ボタンをタップした。
「……もしもし、加藤です」
『加藤さん、突然のお電話失礼します。神崎です』
受話器の向こうから聞こえる神崎の声は、いつも通り冷静だったが、どこか切迫した張り詰めた空気を帯びていた。
『ネットの状況は、ご覧になっていますね?』
「……はい。拝見しました。俺に対する、AIの不正利用疑惑ですね」
『ええ。一部の週刊誌のネット版も後追い記事を出し始めています。連盟の問い合わせ窓口にも、ファンからの抗議や事実確認のメールが殺到している状態です』
神崎は淡々と事実を告げた。
「連盟は……何か処分を下すつもりなんでしょうか。来週の対局は……」
『いえ、連盟は現時点で公式な調査に入る予定はありません。吉沢戦における対局環境は極めて厳格であり、不正の証拠が一切存在しないからです。……ですが、このままでは対局が行われても、世間の疑惑の目は晴れません』
神崎が一息つき、言葉を続けた。
『実は、つい十分前に対局相手の桐生彰吾五段が、ご自身の公式YouTubeチャンネルで緊急の生配信を行いました』
「桐生五段が……生配信を?」
『ええ。加藤さん、今すぐその配信のアーカイブを確認してください。……桐生五段が、この騒動に対して明確な声明を出しました』
通話を終えた清麿は、震える手で動画アプリを立ち上げた。
検索するまでもなく、急上昇のトップにその動画は表示されていた。
『【緊急配信】加藤清麿アマとの次戦、および一連の不正疑惑について――桐生彰吾』
再生ボタンを押す。
画面に映し出されたのは、千駄ヶ谷の将棋会館・特別研究室のデスクに座る、スーツ姿の桐生五段だった。
眼鏡の奥の瞳は、静かに澄み渡り、画面の向こうにいる何万人もの視聴者を射抜くような鋭さを放っていた。
チャット欄には、今も『不正を暴いてくれ!』『プロの意地を見せてくれ!』というコメントが猛烈な速度で流れている。
桐生は深く一礼し、静かに口を開いた。
『――皆さん、こんにちは。棋士の桐生彰吾です。本日、急遽配信を回したのは、SNSやネット上で過熱している、光星杯二回戦の対戦相手・加藤清麿アマに対する一連の疑惑について、私自身の見解をお伝えするためです』
桐生の声は、感情に流されることなく、淡々と、だが重厚に響いた。
『現在、加藤アマの指し手があまりにも最新AIと一致していること、そして四年のブランクがあることなどを理由に、不正行為を疑う声が多数上がっていることは把握しています。……ですが、将棋界に身を置くプロ棋士として、私は皆さんに申し上げたい』
桐生はカメラを真っ直ぐに見据えた。
『根拠のない憶測による個人への中傷は、今すぐやめていただきたい』
ピタリと、チャット欄の流れが一瞬だけ鈍化した。
『吉沢戦の対局室は、連盟の厳格な規定に基づき、電子機器の持ち込み検査が行われていました。外部通信による不正は物理的に不可能です。何より――加藤アマが盤上で放ったあの「端角」と「自陣歩」は、現代のAIをただカンニングしただけでは絶対に指せない手順です。なぜなら、現代のAIの初期判定は「大悪手」だからです。AIの数値を鵜呑みにするだけのカンニング犯が、自ら評価値を数百点も落とすリスクを冒してあの手を指すはずがありません』
理路整然とした、圧倒的な論理の展開。
桐生は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、薄く、獰猛な笑みを浮かべた。
『加藤アマの指し手が異常であることは事実です。現代の将棋理論からすれば、理解不能の怪物と言っていい。……しかし、勝負の世界における疑問は、ネットの言葉で晴らすものではありません。盤の上で、駒をぶつけ合って晴らすものです』
桐生は机の上に両手を組み、力強く言い放った。
『来週の対局、私はプロ棋士としての誇りと、己のすべての研究を懸けて加藤清麿アマを迎え撃ちます。彼の手順が本物なのか、それともまやかしなのか。私が盤上でそのすべてを解剖し、白黒をつけます。……ファンの皆様は、雑音に惑わされることなく、来週の盤上の勝負だけを見届けてください。以上です』
プツリと、動画が終了した。
六畳間に、完全な静寂が戻る。
「…………」
清麿はスマートフォンの画面を見つめたまま、動けなくなっていた。
全身の皮膚が粟立ち、熱い血潮が指先まで怒涛の勢いで巡っていくのが分かった。
桐生彰吾。
現代将棋界の理論派の旗手。
自分を疑い、冷徹に対策を練り、プロの威厳にかけて叩き潰すと宣言した男。
だが、その男は――ネットの卑劣な中傷から清麿を守り、対等の勝負師として、公の盤上で雌雄を決することを天下に宣言してくれたのだ。
「……すごいな、あの人」
清麿の口から、感嘆の息が漏れた。
恐怖は、完全に消え去っていた。
疑われるなら、疑われればいい。
世間が自分を怪物と呼ぶなら、怪物らしく盤上に座ればいい。
逃げ場のない真剣勝負の舞台を用意して、手ぐすね引いて待ってくれている最高峰のプロ棋士がいるのだ。
これ以上の歓喜が、将棋指しの人生にあるだろうか。
「……ふん」
隣で動画を見ていた和令が、腕を組んでツンと顎を上向けた。
「敵ながら、見直したわね。少しは骨のある原始人もいるじゃないの」
「原始人って言うな。最高の棋士だよ」
「はいはい。でもね、清麿。桐生が男気を見せてくれたからって、手加減する気じゃないでしょうね?」
「するわけないだろ」
清麿は立ち上がり、ちゃぶ台の上の伸び切ったうどんを、箸で豪快に口の中へと掻き込んだ。
冷めかけた醤油だしと、天かすの油のコクが、乾いた五臓六腑に染み渡っていく。
「全部食って、エネルギー満タンにするぞ。……和令、桐生対策の定跡アーカイブ、全部出せ。今日から対局の朝まで、一睡もせずに頭に叩き込んでやる」
和令の口元に、不敵で、誇らしげな笑みが咲いた。
「言ったわね、雑魚先祖。……三百年後の叡智の恐ろしさを、現代のプロ棋士の脳天に、直接刻み込んでやりなさい!」
雨音の響くボロアパートの一室で、二人の魂が再び激しく噛み合おうとしていた。
疑惑と熱狂が渦巻く将棋界の頂へ向けて、三十歳の元奨励会員の刃は、より深く、より鋭く研ぎ澄まされつつあった。
読んでいただきありがとうございます。
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