EP 5
『桐生五段からの宣戦布告』
三月半ばの千駄ヶ谷は、鳩森八幡宮の境内に咲く早咲きの桜が、冷たい風にわずかに花びらを震わせていた。
日本将棋会館の正面玄関を見上げながら、加藤清麿はスーツの胸元をぎゅっと押さえた。
一昨日の光星杯一回戦、気鋭の若手・吉沢亮太四段をわずか六十四手で粉砕した衝撃は、将棋界を駆け巡り続けていた。駅前の売店に並ぶ日刊スポーツの将棋欄には、『元奨励会三段、ブランク四年を越える大金星』と太字の見出しが躍り、スマートフォンの画面を開けば、専門ニュースサイトのトップには清麿が放った「端角」と「自陣歩」の盤面図が大きく掲載されている。
だが、世間の熱狂とは裏腹に、清麿の足取りは鉛のように重かった。
昨日、小学生への将棋レッスンと道場の手合係のバイトで四千五百円を稼ぎ出し、何とか今日の昼飯代だけは確保したものの、郵便受けに突き刺さっていた家賃八万四千円の督促状の恐怖は、何一つ解決していない。
プロに勝っても、口座残高が増えるわけではない。
三十歳の無職という冷酷な現実は、今も足元に影のようにへばりついていた。
今日の会館訪問は、光星杯二回戦の対局日程の確認と、将棋連盟からの公式な事務手続きのためだった。
「……ちょっと。さっきからため息ばかり吐いて、二酸化炭素の排出量を無駄に増やさないでくれる、雑魚先祖」
すぐ隣を歩く加藤和令が、腕を組んで冷ややかな視線を投げて寄越した。
銀と藍色のライダースーツは端末の迷彩機能で、周囲の通行人には仕立てのいい紺のジャケット姿に見えているはずだが、その整った眉根の吊り上がり方はいつにも増して鋭い。
「ため息くらい吐かせてくれよ。家賃の期限まであと三日だぞ。八万四千円だぞ? プロ公式戦で一勝した男が、アパートを追い出されて公園のベンチで棋譜並べなんて、どんな前衛的なギャグだよ」
「ギャグじゃなくてあんたの甲斐性のなさでしょ! だいたいね、昨日の夜の焼きうどん、ちくわが薄切りすぎて風味が足りなかったわよ! もっと厚切りにして脂の旨味を麺全体に行き渡らせるのが宇宙の真理でしょ!」
「五十円のちくわに宇宙の真理を求めるな! 厚切りにしたら本数が減って和令の取り分が減るから、気を使って薄切りにしてやったんだろうが!」
「誰がそんな貧乏臭い気遣いを頼んだわけ!? 三百年後の加藤家が極貧生活だったのは、あんたのそのケチくさい思考回路の遺伝子のせいなんじゃないの!?」
「俺の遺伝子を侮辱するな! お前にもその血が半分流れてるんだぞ!」
「あいにく私は突然変異の天才肌よ! あんたみたいなヘタレ先祖と一緒にしないでちょうだい!」
「口から生まれたような小娘め……。だいたい、今日の桐生五段との顔合わせだって、お前が『直接行って気迫で呑んでこい』なんて無茶を言うから――」
「無茶じゃないわよ! 向こうから『対局前の事前確認を兼ねて連盟で挨拶したい』って連絡があったんでしょ! 敵がわざわざ偵察に来るっていうなら、堂々と胸を張って鼻っ柱をへし折ってやればいいじゃないの!」
「へし折れるか! 相手は順位戦でも昇級争い常連の桐生五段だぞ! 吉沢四段とは背負ってる経験の桁が違うんだ!」
「経験なんて、三百年分の完全定跡の前にはただのノイズよ! ほら、背筋を伸ばしなさい! 猫背でみっともないったらありゃしない!」
和令に背中をバチンと力任せに叩かれ、清麿は「ぐえっ」と情けない声を漏らしながら、将棋会館の自動ドアをくぐった。
会館の二階、関係者用の控え室。
部屋の中央に置かれた長テーブルの向こう側に、その男はすでに座っていた。
桐生彰吾五段、三十四歳。
仕立てのいいチャコールグレーのスーツに、銀縁の眼鏡。机の上には薄型の高性能ノートパソコンが開かれ、画面には無数のグラフと局面図が目まぐるしく点滅している。
清麿が部屋に入った瞬間、桐生はキーボードを叩く手を止め、ゆっくりと顔を上げた。
その双眸は、理知的な光を宿しながらも、獲物を解剖台に乗せる外科医のように冷徹で、鋭利だった。
「……初めまして、加藤清麿さん」
桐生の声は低く、よく通った。感情の起伏を押し殺した、静かなトーン。
「光星杯二回戦で対局することになりました、桐生です」
「あ……加藤です。よろしくお願いします」
清麿が頭を下げると、桐生は無言で視線を促し、対面のパイプ椅子を指した。
清麿が座ると、桐生はノートパソコンの画面をくるりと回転させ、清麿の正面へと向けた。
画面に映し出されていたのは、一昨日の吉沢四段との棋譜――清麿が放った、あの二十手目の「端角」と、直後の「自陣歩」の局面だった。
「加藤さん。単刀直入に伺います」
桐生は細い指先で眼鏡のブリッジを押し上げ、画面を指差した。
「この手順は、あなたがご自身で考え出されたものですか?」
部屋の空気が、ピシリと凍りついた。
清麿の心臓が、跳ね上がる。
「……え?」
「私はね、昨夜からこの局面を、自宅のクラスタサーバーに繋いだ最新の解析ソフト三種類に読み込ませました。計算手数は各ソフトで一億局面以上。……結果は、極めて奇怪なものでした」
桐生がタッチパッドを操作すると、三本の折れ線グラフが画面に重なり合って表示された。
「現代のいかなるAIも、初期段階ではこの端角を『マイナス七百点の大悪手』と判定します。しかし、あなたが吉沢四段を投了に追い込んだ六十四手目までの手順をそのまま入力すると、四十手を超えたあたりで、すべてのAIの評価値が垂直に反転し、後手勝勢へと跳ね上がる」
桐生の目が、細められた。
「まるで……数十手先に訪れる玉の退路封鎖を、最初から完全に知っていたかのような手順だ。現代のプロ棋士の研究会でも、こんな構想に辿り着いた人間は一人もいません。それどころか、開発中のディープラーニングモデルですら、この端角を第一候補に挙げることはなかった」
桐生は机の上に両手を組み、ずいっと身を乗り出してきた。
「四年間のブランクがあり、将棋界から完全に姿を消していた三十歳の元三段が、突然現れて、現代最高峰のAIすら見落としていた『絶対の解』を、一手一秒のノータイムで指し続ける。……加藤さん。あなたは一体、どこからこの手順を持ち込んだのですか?」
息が詰まった。
喉がカラカラに渇き、冷や汗が背筋を伝い落ちていく。
痛烈な、そして核心に近すぎる問いかけ。
(見抜かれている……)
吉沢四段は若さゆえに盤上の混乱に呑み込まれたが、目の前の桐生彰吾は違う。
徹底した理論派だからこそ、清麿の指し手が「人間の直感」の領域を遥かに踏み越え、何者かによって極限まで計算し尽くされた「結論」であることを、データを通して正確に嗅ぎ取っていたのだ。
「そ、それは……俺が、家で盤に向かって、ずっと考えてきた研究で……」
「嘘ですね」
桐生は間髪を入れずに、冷ややかに切り捨てた。
「人間の脳の演算能力には限界があります。特に、現代の定跡体系に染まった人間ほど、初期評価値がマイナス七百点の手を直感で選ぶことはできない。……現在、ネットや棋士の間で、あなたに対する不穏な噂が流れ始めているのをご存知ですか?」
「噂……?」
「ええ。『不正行為』――未知の高性能AIを用いた、外部からの不正通信の疑いです」
「っ……!?」
清麿の全身の血が、サッと引いた。
不正。
カンニング。
勝負の世界において、最も重く、最も忌まわしい疑惑の言葉。
「ち、違います! 俺はそんなこと、絶対にしていません!」
「私も、あなたが不正をしていると断定しているわけではありません」
桐生の声は、どこまでも冷静だった。
「一昨日の対局室には厳格な電子機器の持ち込み検査があり、金属探知機も通っている。通信による不正は物理的に不可能に近かった。しかし……あなたの指し手があまりにも人間離れしていることもまた、紛れもない事実なのです。このままでは、あなたが勝ち進むたびに、将棋界に拭いきれない疑念と混乱が広がり続ける」
桐生は立ち上がった。
仕立てのいいスーツの裾を正し、見下ろすように清麿の目を真っ直ぐに見据える。
「だから、私は次の二回戦、あなたに対して徹底的な対策を用意します。吉沢戦で見せたような奇手が二度と通用しない、現代最高峰の完全な布陣を組み上げる。……その上で、盤上であなたを叩き潰す」
桐生の眼鏡の奥で、勝負師の青い炎がギラリと燃え上がった。
「加藤さん。もしあなたが、本当にご自身の実力でその高みに立っているというのなら――次の一局、私との盤上で証明してみてください」
圧倒的な威圧感。
現代の最前線で戦い続けるプロ棋士の、誇りと意地が凝縮された宣戦布告だった。
清麿は声が出ず、ただ息を呑んでその気迫に圧倒されるしかなかった。
プロの壁。
自分が二十六歳で逃げ出した世界の、本物の住人が放つ重圧。
恐怖で喉が引き攣りかけた――その時だった。
「――あっはははははは! 傑作ね! 最高じゃない!!」
静まり返った控え室に、場違いなほど澄んだ、甲高い高笑いが響き渡った。
「なっ……!?」
桐生が驚愕して視線を巡らせる。
部屋の隅、壁に背を預けていた和令が、お腹を抱えて笑い転げていたのだ。
清麿は慌てて飛び上がった。
「わ、和令! お前、何を急に笑い出してんだ!」
「だって可笑しいじゃない! 何よ『実力なら証明してみてください』って! 三百年遅れた電卓を三台並べて『一億局面読みました』ってドヤ顔してるなんて、原始人が石斧の切れ味を自慢してるのと一緒よ!」
「お、お前、プロ棋士の先生に向かって何を――!」
和令は清麿の静止を完全に無視し、ツカツカと桐生の目の前まで歩み寄った。
桐生は眉をひそめ、突然割り込んできた謎の少女を凝視した。
「君は……加藤さんの、付き添いの方ですか?」
「付き添いじゃないわよ! この情けない雑魚先祖を、あんたたちみたいな頭の固いプロを薙ぎ倒して頂点に立たせるための、最高責任者よ!」
和令はずいっと桐生の鼻先を指差した。
「いいわよ、桐生五段! その宣戦布告、加藤家を代表して謹んで受けて立つわ!」
「和令、勝手に受けるな!」
「うるさいわね、受けるに決まってんでしょ! あんた、ここで尻尾巻いて逃げ出す気!?」
「逃げないけど、言い方ってもんがあるだろ!」
和令は清麿を一喝すると、再び桐生に向き直り、勝ち誇ったような不敵な笑みを浮かべた。
「あんたの自慢のサーバー、全部フル稼働させて対策してきなさいよ! どんなに対策されたって、三百年後の結論の前には無意味だってことを、盤の上で骨の髄まで教えてあげるわ!」
「…………」
桐生は呆気に取られたように目を丸くし、それからフッと、自嘲気味に口元を緩めた。
「……威勢のいいセコンドですね」
桐生はノートパソコンをパタンと閉じ、ビジネスバッグに収めた。
「いいでしょう。加藤さん、来週の対局室でお待ちしています。逃げ出さずに来てくださいよ」
桐生は一礼し、風のように控え室を去っていった。
バタン、と重いドアが閉まる。
部屋に残された清麿は、その場にへたり込み、両手で顔を覆った。
「……はあぁぁぁ……死ぬかと思った……」
「何が死ぬかと思ったよ! シャキッとしなさい、雑魚先祖!」
和令が清麿の頭をペシッと叩いた。
「桐生のやつ、完全にビビってたじゃないの! AIの不正疑惑なんて、現代の技術じゃ理解できない一手への敗北宣言よ!」
「ビビってないだろ! 本気で俺を潰しに来る目をしてたぞ!」
「潰せるもんなら潰してみなさいってのよ! むしろ大歓迎じゃない! 相手が現代最高峰の理論派なら、それを真っ向からへし折った時、あんたの実力に対する疑念は完全に消し飛ぶわ!」
和令の瞳は、爛々と輝いていた。
恐れるどころか、自らの持つ三百年後の知識を、現代の最高峰の知性にぶつけられることに、心の底から歓喜していた。
清麿は顔を上げ、和令のその勝気な笑顔を見つめた。
口は悪く、態度は傲慢極まりない。
だが――不思議と、さっきまで胃を締め上げていた冷たい恐怖が、消え去っていた。
「……そうだな」
清麿はゆっくりと立ち上がった。
不正を疑われるなら、盤上で晴らすしかない。
四年間、逃げ続けてきた自分が、もう一度掴み取った勝負の舞台なのだ。
「桐生五段の完璧な研究……上から粉砕してやるよ」
「ふん、言ったわね! 帰るわよ、清麿! 今夜は桐生のすべての得意戦法を、三百年分の完全定跡で完膚なきまでに叩き潰す特別特訓よ!」
「おう! ……あ、でもその前に、帰りにスーパーでうどん買っていいか? 今日はちくわ、二本入れてやるから」
「二本!? 少ないわよ! せめて一人一本、合計三本買いなさい!」
「ちくわは一袋三本入りなんだよ! 計算が合わねえだろ!」
「私が二本食べるに決まってんでしょ、この算数音痴!」
春の夕暮れが迫る千駄ヶ谷の街に、二人のけたたましい声が響き渡っていった。
光星杯二回戦まで、あと七日。
現代最強の理論派と、未来の答えを背負う元神童の激突が、静かにカウントダウンを刻み始めていた。
読んでいただきありがとうございます。
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