EP 4
『勝ったのに家賃が払えません』
三月のやわらかな朝の光が、築四十年のアパートの擦り切れた畳の上に、歪んだ四角形の模様を描いていた。
加藤清麿は、薄いせんべい布団の上に正座し、枕元に置かれたスマートフォンの画面を無言で見つめていた。
画面には、大手ポータルサイトの急上昇ワードランキングが表示されている。
そこに並んでいたのは、目を疑うような文字列だった。
『加藤清麿』
『光星杯一回戦』
『吉沢四段、64手で投了』
『謎の元三段、プロを圧倒』
タップすると、将棋専門ニュースのトップ記事が開き、昨日取材を受けた神崎澪記者の署名記事が、堂々と一面を飾っていた。
『【光星杯】元奨励会三段・加藤清麿アマ、新進気鋭の吉沢亮太四段を64手で撃破! 現代の最新AI定跡を根底から覆す「自陣歩」「端角」の衝撃構想』
記事のコメント欄は、何千件もの書き込みで埋め尽くされている。
『これマジ? 吉沢四段って三段リーグ一期抜けの怪物だぞ』
『棋譜見たけど意味が分からん。なんであの手で吉沢陣が崩壊するんだ?』
『加藤清麿って四年前に年齢制限で退会した人だよね。どこでこんな研究を隠し持ってたんだ』
『プロ編入試験、マジで目指せるんじゃないか……!?』
熱狂、驚愕、そして賞賛。
四年間、社会から完全に消し去られ、コンビニの夜勤をクビになり、スーパーの面接官に「駒をパチパチ動かしてただけの三十歳」と嘲笑されていた男の名前が、いまや将棋界のど真ん中で爆発的な台風の目となっていた。
「……すごいな」
清麿の口から、乾いた呟きが漏れた。
胸の奥が熱くなり、指先が誇らしさで微かに震える。
自分はプロに勝ったのだ。あの過酷な奨励会三段リーグを勝ち抜いた、本物の現役プロ棋士を、公式戦の盤上で堂々とねじ伏せたのだ。
――ガタゴト。
その余韻をぶち破るように、玄関の郵便受けの金属フタが無粋な音を立てて跳ね上がった。
何か薄いものが、三和土の上にパサリと落ちる。
清麿は立ち上がり、玄関へ向かった。新聞の号外でも届いたのだろうか、などと一瞬でも期待した己の浅ましさを、清麿は直後に骨の髄まで呪うことになる。
落ちていたのは、目に痛いほどの蛍光ピンク色の封筒だった。
表書きには、大家の手書きの震えるような達筆で、太いマジックインキの文字が躍っていた。
『至急開封・家賃お支払いのお願い(最終通告)』
「…………」
清麿の脳内から、プロ公式戦の勝利の余韻が、一瞬で音を立てて蒸発した。
震える指先で封を破り、中の紙を取り出す。
『加藤清麿様。前月分および今月分の家賃、合計八万四千円のお支払いが確認できておりません。今週金曜日までにお振込みいただけない場合、賃貸借契約の解除および立ち退きの手続きに入らせていただきます』
「は、八万……四千円……」
清麿の膝が、生まれたての子鹿のようにガクガクと震え出した。
慌てて部屋に戻り、万年床の脇に放り出してあった茶色い革財布を開く。
千円札が一枚。
百円玉が四枚。
十円玉が八枚。
合計、千四百八十円。
「……終わった」
清麿はその場に崩れ落ち、畳に両手をついた。
勝ったのに。
プロ棋士相手に歴史的な大金星を挙げ、ネットで『神童の復活』と祭り上げられているというのに。
現実の加藤清麿は、あと四日で住む家を失い、路頭に迷う寸前の三十歳無職だった。
「……朝っぱらから畳に土下座して、何のお祈りをしてんのよ、雑魚先祖」
押し入れの前から、呆れ果てたような声が降ってきた。
銀と藍色のライダースーツの襟元を正し、長い黒髪をかき上げながら加藤和令が居間に現れた。
「起きたならさっさと布団を上げなさいよ。ただでさえ狭い六畳間が、あんたの死体ごっこで視界の八割を占領されてるんだけど」
「わ、和令……! 大変だ……大変なことになった……!」
「何よ。吉沢四段のファンから脅迫状でも届いたわけ?」
「違う! もっと恐ろしい、この世の終わりの通告だ! ほら、見ろ!」
清麿が涙目でピンク色の紙を差し出すと、和令は眉をひそめ、人差し指と親指でつまむようにして受け取った。
「……『やちんのおしはらいのおねがい』? 何これ、三百年後の督促状に比べたらフォントが原始的すぎて緊迫感ゼロね」
「フォントの問題じゃない! 八万四千円だよ! 今週中に払わなきゃ、俺たちはこの部屋を追い出されるんだぞ!」
「はあ? 何言ってるのよ。プロに勝ったんでしょ? 大金星を挙げた大棋士様なんでしょ? 昨日の対局の賞金をパパーンと振り込めば一発解決じゃないの」
「賞金なんて出るわけないだろ!!」
清麿の絶叫が六畳間に木霊した。
「出ないわけないでしょ! プロの公式戦よ!? 三百年後なら、公式戦でプロに一勝した瞬間に、勝利ボーナスとして十万クレジットが脳内口座へ即時送金されるわよ!」
「ここは二〇二六年なんだよ! 光星杯のアマチュア特別枠は、予選トーナメントを一勝したくらいじゃ賞金なんて一円も出ないんだ!」
「……は?」
和令の整った顔が、ピキリと固まった。
「出ないって……どういうことよ? ただ働きなわけ?」
「ただ働きじゃない! 交通費と日当として、後日連盟から一万五千円が振り込まれる規定にはなってる! でも振込日は翌月末だ! 賞金が出るのは本戦トーナメントのベストフォーからなんだよ!」
「な……何よその前時代的でドケチなシステムは!? アマチュアから搾取して何がプロ公式戦よ! 日本将棋連盟に今すぐ乗り込んで、未払い賃金の支払いを要求する抗議デモを起こすわよ!」
「やめろ! プロ公式戦にアマチュアを参加させてもらってるだけでありがたい話なんだ! デモなんか起こしたら一発で出場停止処分だろ!」
「じゃあどうすんのよ! あんたの全財産は!?」
「千四百八十円だ!!」
清麿が胸を張って財布をパカッと開けて見せると、和令は息を呑み、それから心底蔑むような目で清麿を見下ろした。
「……千四百八十円。小学生の遠足のおやつ代じゃないの。三十歳にもなって、プロ棋士を倒しておいて、所持金が千四百八十円って……恥ずかしくないわけ、雑魚先祖?」
「恥ずかしいよ! 死ぬほど惨めだよ! でも事実なんだから仕方ないだろ!」
「仕方ないで済むかぁぁぁっ!!」
和令が怒声を張り上げ、清麿の胸ぐらを掴んで激しく前後に揺さぶった。
「あんたがホームレスになったら、私の寝床はどうなるのよ! 公園のベンチで野宿しながら完全定跡アーカイブを研究しろって言うわけ!? 夜露で私の精密端末が故障したらどう落とし前をつける気!?」
「ゆ、揺らすな! 脳みそがシェイクされる! 大体、お前が未来から転がり込んできて飯を食うから、食費が倍のスピードで消えてるんだろうが!」
「私の生命維持コストを責める気!? あんたがベランダからダイブして植物人間になるのを、命がけの時間跳躍とドロップキックで阻止してあげた大恩人に向かって!」
「命は助けてもらったけど、家賃の足しにはなってないんだよ!」
「屁理屈をこねるな、この経済的破綻者!!」
ギャーギャーと繰り広げられた大口喧嘩は、二人の腹の虫が同時に「ぐうぅぅぅ」と派手な二重奏を奏でたことで、ようやく休戦を迎えた。
時計の針はすでに正午を回っていた。
清麿は荒い息を吐きながら、千四百八十円の中から千円札を握りしめ、近所の安売りスーパーへと走った。
三十分後。
六畳間の古びた一口コンロの上で、フライパンがジュウジュウと威勢のいい音を立てていた。
具材は、特売で一袋十九円の見切り品うどん二玉。
一袋十八円のもやし。
冷蔵庫に残っていたキャベツの芯の千切り。
そして、三本で五十円のちくわを斜めに薄切りにしたもの。
清麿はフライパンを器用に煽り、ウスターソースと醤油、酒を回し入れた。立ち上る香ばしいソースの焦げる匂いが、狭い台所から六畳間へと広がっていく。
「……はい、お待たせ。特製ソース焼きうどん、ちくわ増量バージョンだ」
ちゃぶ台の上に、湯気を上げる大皿がドンと置かれた。
皿の端には、一人前につき一個の目玉焼きが、絶妙な半熟加減で乗せられている。
和令は正座したまま、箸を持って皿を見つめた。
「……何これ。茶色一色じゃないの。緑黄色野菜の彩りって概念を知らないわけ?」
「キャベツの芯が入ってるだろ。文句があるなら食うな。材料費は二人前で締めて百三十円だ」
「百三十円……。三百年後の合成廃棄物ブロックより安いわね……」
和令は眉をひそめながらも、箸を伸ばしてうどんを一口啜った。
もぐもぐと咀嚼し、半熟の黄身を箸で崩して絡める。
そして――ほんのわずかに、その大きな瞳を丸くした。
「……どうだ?」
「…………」
和令は無言のまま、猛烈な勢いで二口目、三口目を口に放り込んだ。
シャキシャキとしたもやしの歯ごたえ、ちくわから染み出た魚肉の旨味、そして甘辛いソースを吸ったもちもちのうどんが、半熟卵の濃厚なコクと絡み合っている。
皿の半分を平らげたところで、和令はフンと鼻を鳴らした。
「……まあ、原始人の野戦食にしては、及第点の上をあげてもいいわよ。ちくわの弾力が、炭水化物の単調さをギリギリ誤魔化してるわ」
「素直に『美味しい』って言ったら爆発でもするのか、お前は」
清麿も苦笑しながら箸を動かした。
腹の底に温かい炭水化物が落ちていくと、凍りついていた頭が少しずつ回転を取り戻してくる。
千代から振り込まれた二万円には、絶対に手をつけない。あれは妹が夜勤の激務で身を削って工面してくれた金だ。家賃の穴埋めに使ってしまえば、自分は一生、妹の優しさに甘え続けるクズのままだ。
「……よし。午後から、駅前のコミュニティセンターに顔を出してくる」
清麿が麦茶を飲み干して言った。
「先週教えた小学生の親御さんから、友達も一緒に教えてほしいって連絡が入ってたんだ。二人分のレッスンで二時間、四千円になる。それと、夜は将棋道場で席料免除の手合係のバイトに入れないか、席主さんに掛け合ってみるよ」
「ふん。日銭稼ぎね」
和令はお皿を空っぽにして箸を置くと、腰のホルダーから透明な薄型端末を引き抜いた。
「感心だけど、小銭を稼いで安心してる場合じゃないわよ、清麿。……あんたの次の相手、決まったんだから」
「……え?」
清麿の手が止まった。
ヒュン、と静かな電子音とともに、六畳間の空間に青白いホログラムが浮かび上がった。
空中に展開されたトーナメント表。
吉沢四段を破った清麿の、光星杯二回戦の対戦カード。
そこに記されていた名前に、清麿の息が止まった。
『桐生彰吾五段』
「……桐生五段……!」
三十四歳。プロ棋士五段。
徹底したAI研究と論理的な解説で絶大な人気を誇る、現代将棋界の「理論派の旗手」。先日の城東地区予選の棋譜を見て、清麿の異様な指し手に強い興味を抱いていた男だった。
「そうよ。新四段の吉沢とは、格も実力も一段上の本物よ」
和令の表情から、先ほどまでのコミカルな毒気が消え去った。
端末を操作すると、桐生五段の過去の対局データと勝率グラフがズラリと空中に並ぶ。
「桐生彰吾。順位戦でも昇級争いの常連で、直近の勝率は七割超え。何台もの高性能サーバーを自宅に並べて、現代最高水準のAI研究を極限まで突き詰めてる研究の鬼よ。……そしてね、清麿。この男、あんたの吉沢戦の棋譜を、すでに何百回も解析機に放り込んでるわ」
「俺の棋譜を……?」
「そうよ。吉沢が指した相掛かり最新型を、あんたが『端角』と『自陣歩』のたった二手で粉砕したでしょ。あの手順、現代のプロ棋界全体に激震を走らせてるのよ。桐生はその謎を解明するために、寝る間も惜しんで対策を練り上げてるわ」
和令の指先が、空中のデータを弾く。
「吉沢戦で使った『パターンA・常識破壊の序盤』は、桐生にはもう通用しないと思いなさい。あの男は、あんたが奇手を指してくることを百も承知で、その上からさらに分厚い理論で押し潰しにかかってくるわよ」
清麿はごくりと喉を鳴らした。
相手は、現代の知性の頂点に立つプロ棋士だ。
吉沢戦のように、相手が初見の驚きで狼狽してくれることは二度とない。
徹底的に解剖され、対策され、その上で盤上に座ってくるのだ。
「……怖い?」
和令がジト目で覗き込んできた。
清麿は自分の両手を見つめた。
指先が、微かに震えている。
だが――それは、四年前に味わっていた絶望の震えではなかった。
胸の奥で、カッと熱い炎が燃え盛っていた。
「……怖くないと言ったら嘘になる。でもさ」
清麿は顔を上げ、和令の目を真っ直ぐに見据え返した。
「プロの五段が、俺の将棋を本気で研究して、本気で倒しに来てくれるんだぞ。……四年間、誰にも見向きもされずにゴミ箱の中で生きてた俺を、プロが対等の敵として認めてくれたんだ」
口元に、自然と笑みがこぼれていた。
「家賃八万四千円の催促状に比べたら、桐生五段との対局なんて……最高の舞台じゃないか」
和令は一瞬、呆気に取られたように目を見張った。
そして――すぐに、いつもの勝ち気で不遜な笑みをその唇に咲かせた。
「……ふん。言うじゃない、雑魚先祖」
和令は端末をパチンと閉じ、立ち上がった。
「いい度胸よ。四千円のレッスンと道場のバイト、さっさと終わらせて帰ってきなさい。今夜は桐生彰吾のすべての得意戦法を、三百年後の完全定跡で完膚なきまでに叩き潰す特別メニューを叩き込んであげるわ!」
「おう! 徹夜で付き合ってやるよ!」
ボロアパートの六畳間に、二人の笑い声が響いた。
手元の小銭は千三百五十円。家賃の期限まであと四日。
どん底の貧乏生活の真ん中で、三十歳の元奨励会員の逆襲劇は、次なる巨大な壁――現代最高峰の知性との激突へ向けて、力強く加速していた。
読んでいただきありがとうございます。
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