EP 4
『詰み』への誘導
夜の帳が下りた商店街の裏通り。
看板の電球が切れかけた雑居ビルの2階に、『将棋サロン・桂馬』はあった。
紫煙が立ち込め、駒音が響く。ここは、純粋な将棋道場というよりは、少し「大人」の空気が漂う場所だ。
「おいおい、誰かと思えば……加藤ちゃんじゃねえか」
ドアを開けた瞬間、ドスの利いた声が飛んできた。
奥の席でパイプ椅子に踏ん反り返っていたのは、権田という初老の男だ。
アマ六段を自称するこのサロンの主であり、かつて奨励会を退会したばかりの清麿を「プロ崩れ」と散々カモにした因縁の相手だ。
「……お久しぶりです、権田さん」
「生きてたのかよ。てっきり首でも吊ったかと思ってたぜ。で? 今日は何の用だ? また負けに来たのか?」
権田の取り巻きたちが下卑た笑い声を上げる。
清麿の足がすくむ。また、あの屈辱を味わうのか。
だが、背中をドン、と蹴られた。
「挨拶はいいわ。さっさと座んなさいよ」
和令だった。
彼女は「親戚の子」という設定で、物珍しげにサロンを見回している。
「へえ、可愛い連れだな。……いいだろう。久しぶりに稽古つけてやるよ。レートはいつもの倍でいいか?」
権田がニタリと笑い、盤上の駒を乱暴にかき混ぜた。
◇
対局が始まった。
手合いは平手。
(……強い)
清麿は開始早々、脂汗をかいていた。
権田は口こそ悪いが、将棋は荒々しくも実戦的だ。
こちらの定跡を無視して力戦(定跡外の乱戦)に持ち込み、精神的に揺さぶりをかけてくる。
「どうした加藤ちゃん! 手が震えてるぞ!」
権田が角を打ち込む。
厳しい手だ。
清麿の玉周辺が薄くなり、守勢に回らざるを得ない。
(くそっ、やっぱり俺じゃ……)
弱気が顔を出す。
だが、後ろで腕を組んでいる和令の視線が背中に刺さる。
『耐えなさい。あんたは3段まで行ったんでしょ? 腐ってもプロの端くれなら、この程度の攻め、凌いで見せなさいよ』
声には出さないが、そう言われている気がした。
清麿は奥歯を噛み締めた。
そうだ。俺は10年やったんだ。
才能がないと言われても、泥水をすするような思いで定跡を覚え、詰将棋を解き続けた日々がある。
(……この程度で、崩れてたまるか!)
清麿は深呼吸をした。
和令の「チャート」はまだ使えない。
今はまだ、そこまでのルートが開通していない。
そこまでは、自分の足で歩くしかない。
「……2二銀」
清麿は守りの手を指した。
地味だが、最善の粘り。
権田の猛攻を、ギリギリのところで受け流す。
「チッ、しぶといな……」
攻めあぐねた権田が、舌打ちをした。
手数が50手を超えたあたり。
盤面は混戦模様を呈していたが、清麿の粘りにより、互角の形勢を保っていた。
そして、その時は来た。
権田が焦れて、強引に飛車を回った瞬間。
盤面が、カチリと音を立てて嵌まった気がした。
(……来た)
清麿の脳裏に、和令に見せられたホログラムが重なる。
『チャート74番・変則相掛かり基本図』。
ここだ。
ここまで耐えれば、あとは――。
背後の和令が、小さく「ビンゴ」と呟いたのが聞こえた。
「ん? なんだ急に手が止まったな。降参か?」
権田が勝機と見て、身を乗り出す。
だが、清麿はゆっくりと顔を上げた。
その瞳から、怯えが消えている。
「……いえ。ここからは、速いですから」
「あ?」
清麿は、スッと右手を伸ばした。
指先が冷たく冴え渡る。
ここからは思考ではない。作業だ。
300年後の未来が導き出した、絶対不可避のデス・ロード。
パチリ。
「5五歩」
「は? なんだそのぬるい手は。そんなもん、同角で……」
権田が角で歩を取る。
清麿は間髪入れずに次の手を指す。
「4五桂」
「だから、それが無駄だって……」
権田が対応する。
しかし、清麿の手は止まらない。
考える時間などゼロ。
相手が指した瞬間に、次の手を指す。
まるで、最初から相手の応手が分かっていたかのように。
「な、なんだ……?」
権田の額に汗が滲み始めた。
おかしい。
清麿の指し手は、一見するとバラバラで、繋がりがないように見える。
だが、気がつけば自分の玉が、見えない糸で縛られているような圧迫感を感じる。
「おい、ちょっと待て。考えさせろ」
「どうぞ。いくら考えても、結果は同じです」
清麿は淡々と言った。
権田は長考に沈む。
だが、今の清麿には見えている。
今の局面、権田には3つの応手があるが、どれを選んでも『137手詰め』のコースに入っていることが。
これは対局ではない。
壮大な『詰将棋』の答え合わせだ。
「……くそっ、これならどうだ!」
権田が勝負手を放つ。
しかし、清麿は表情一つ変えずに、即座に駒を叩きつけた。
「同金」
「なっ!?」
「4四銀」
「ぐっ……」
「3三歩成」
速い。
あまりにも速い。
権田がどんな奇手を繰り出そうとも、清麿はマシーンのように正確に、最短ルートで王を追い詰めていく。
「ま、待て! おかしいだろ! なんでそんな手が見える!?」
権田が悲鳴を上げた。
自分の玉が、盤上の端から端へと追い回され、逃げ場を失っていく。
それはまるで、熟練のハンターが獲物を袋小路に追い込むような、残酷なまでの手際だった。
「……詰みです」
清麿が静かに告げた。
最後の手。
持ち駒の金を、権田の玉の頭にパチリと打つ。
盤上には、逃げ場のない王将が一つ、ポツンと残されていた。
「…………」
サロンが静まり返る。
周囲で見ていた野次馬たちも、口を開けたまま固まっていた。
あの「プロ崩れ」の清麿が、道場最強の権田を、後半一方的に蹂躙したのだ。
「……ば、バカな」
権田が震える手で頭を抱えた。
「俺が……こんな、子ども扱い……?」
清麿は大きく息を吐いた。
勝った。
自分の3段としての地力で耐え、未来の『答え』で刺す。
この感覚。
今まで味わったことのない、全能感。
「……回収、終わり」
和令が清麿の肩を叩いた。
「よくやったわ、先祖。前半は見てられない泥仕合だったけど、後半は合格点よ」
「……ああ」
清麿は自分の手を見つめた。
震えはもう、止まっていた。
これは行ける。
この力があれば、失った10年を取り戻せるかもしれない。
「さあ、清麿。次は大会よ」
和令がニヤリと笑った。
「300年後の『詰み』の恐怖、現代の棋士たちに教えてあげましょ」




