EP 3
「暗記……だって?」
清麿の声が裏返った。
1LDKの薄暗い部屋に、和令が展開したホログラムの青白い光が満ちている。
「バカ言うな! 将棋の局面の総数は10の220乗だぞ!? 星の数より多いんだ。それを暗記するなんて、人間の脳みそじゃ不可能だ!」
かつて奨励会で叩き込まれた常識だ。
将棋は無限。だからこそ、棋士は「大局観」や「直感」、そして「読み」を磨く。
暗記でどうにかなるなら、誰も苦労はしない。
「あんた、本当に300年前の人間ね」
和令は呆れたように肩をすくめると、空中に浮かぶ複雑な樹形図を指先で弾いた。
「10の220乗? それは『無駄な手』も含めた数字でしょ。ほら、見て」
彼女が操作すると、樹形図の9割がグレーアウトし、一本の鮮やかな赤いラインだけが残った。
「300年後のAIが出した結論はシンプルよ。『相手が最善を尽くしてきた場合、正解ルートは極めて細い』ってこと」
「細い……?」
「そう。相手がミスをすればルートは広がるけど、相手が強ければ強いほど、正解の道は一本道になる。未来の棋士はね、この『赤のルート(ビクトリー・ロード)』を脳に焼き付けてるの」
和令は清麿の顔を覗き込んだ。
「全部を覚える必要はないわ。この『赤のルート』と、相手がそこから外れた時の『咎め方』のパターン。これだけ覚えればいい」
「……言ってることは分かるが」
理屈は分かる。
定跡の進化系ということだろう。
だが、その量が尋常ではない。
「無理だ。俺はもう30歳だぞ? 記憶力だって落ちてるし、何より……」
「何より?」
「10年間染みついた『自分の将棋』がある。長考して、悩んで、手を作る……それが俺の将棋だ」
「だから負けたんでしょ?」
グサリ、と真実が胸に突き刺さる。
「あんたのその『自分の将棋』とやらが、ゴミだったから3段リーグを抜けられなかったのよ。プライドなんて捨てなさい。今は、脳みそのHDDをフォーマットする時よ」
和令は容赦なかった。
彼女は端末を操作し、清麿の目の前に一局面を表示させた。
「はい、これ。先手が3手目に『7七金』と上がった局面。どう思う?」
「は? 7七金?」
清麿は眉をひそめた。
将棋のセオリーで言えば、序盤で金がそんな中途半端な位置に上がるなんてあり得ない。守りが薄くなるし、攻めの形も作れない。
「悪手だろ。形が悪いし、将来性がない」
「ブブー。不正解」
和令が指を鳴らすと、画面に『評価値:先手勝率58%』という文字が浮かんだ。
「これは『カトウ・スペシャル』の基本図よ」
「カトウ……?」
「未来で流行った戦法。一見悪手に見えるけど、30手後に相手の飛車の利きを完全に封じる布石なの。理由は考えなくていい。とにかく『この局面では7七金』。復唱!」
「ええ……な、7七金……」
「声が小さい! 7七金!」
「7七金!」
まるで軍隊だった。
あるいは、洗脳教育。
「次! 相手が飛車を振ってきたら?」
「えっと、玉を囲って……」
「違う! 即座に『2五歩』! 囲う前に仕掛けるのが未来流!」
「でも、それじゃカウンターが……」
「うるさい! AIが大丈夫って言ってるんだから大丈夫なの! 覚えろ!」
「ひいぃ……」
それから、地獄のような時間が続いた。
食事はコンビニのおにぎりのみ。
トイレ以外の全ての時間を、和令の『チャート』暗記に費やされた。
清麿の脳は悲鳴を上げていた。
かつて学んだ定跡、手筋、格言……それらが次々と否定され、上書きされていく。
(気持ち悪い……)
自分の思考ではない手を、脳にねじ込まれる感覚。
それは将棋を指しているというより、答えの決まったマークシートを塗りつぶしているような作業だった。
だが。
「……あれ?」
3日目の夜。
徹夜続きで朦朧とする意識の中で、清麿は盤面を見て奇妙な感覚に襲われた。
盤上に、うっすらと『線』が見える。
和令が出した次の一手問題。
以前の清麿なら、10分は長考するような難解な局面だ。
しかし、考えるより先に、手が勝手に動いた。
パチリ。
「4五桂馬」
それは、セオリーでは絶対に跳ねてはいけない、ただ捨ての桂馬だった。
しかし、指した瞬間に分かった。
相手はこれを取れない。取れば詰む。逃げても陣形が崩壊する。
「……正解」
和令がニヤリと笑った。
「やっとインストールが完了してきたみたいね」
清麿は自分の手を見つめた。
震えは止まっていた。
思考のノイズがない。
迷いがない。
「どっちがいいか」と悩む必要がない。「これしかない」という答えが、最初から脳内にあるからだ。
「すごい……」
これが、未来の将棋。
才能も、直感も、運さえも排除した、純粋な論理の結晶。
「どう? 少しは自信ついた?」
和令が缶コーヒーを投げてよこした。
清麿はそれを受け取り、冷たさを掌に感じる。
「……自信っていうか、不思議な気分だ。自分が指してる気がしない。まるで、誰かに操縦されてるみたいな」
「それでいいのよ。あんたは私の『駒』なんだから」
和令は悪びれもせずに言った。
「さて、インストールは一通り終わったわ。次は実践テストよ」
「実践? ネット将棋か?」
「ううん。ネットじゃお金にならないでしょ」
和令は、清麿の財布をひっくり返した。
1000円札が3枚と、小銭がジャラジャラと落ちる。
「全財産、これだけ?」
「……面接交通費で消えた」
「情けないわねぇ。これじゃあ、大会のエントリー費も払えない」
和令は落ちた小銭を拾い集めると、清麿のポケットにねじ込んだ。
「行くわよ、清麿」
「どこへ?」
「決まってるじゃない。あんたが昔、入り浸ってた場所」
清麿の背筋が凍った。
「まさか……『将棋サロン・桂馬』か?」
そこは、奨励会を退会した後、一度だけ現実逃避で訪れた場所だ。
そして、常連のアマチュア強豪たちに「元奨励会のくせに大したことないな」「プロ崩れ」と陰口を叩かれ、二度と行けなくなったトラウマの場所。
「あそこは……無理だ。みんな俺の顔を知ってる。また笑われるだけだ」
「だからこそ、いいカモなのよ」
和令は邪悪な笑みを浮かべた。
その瞳は、獲物を狙う猛獣のように輝いていた。
「今のあんたは、みんなが知ってる『負け犬の清麿』。誰もあんたが勝つなんて思ってない。オッズは最高よ」
「……賭け将棋をさせる気か?」
「人聞きが悪いわね。『指導対局』への謝礼よ。……さあ、立って。300年分の借金、まずはあのオヤジどもから回収するわよ」
清麿は重い腰を上げた。
拒否権はない。
それに、心のどこかで、小さな期待が芽生えていた。
(今の俺なら……勝てるのか?)
あの屈辱を、この『未来の記憶』で晴らせるのなら。
清麿はヨレたジャケットを羽織り、深夜の街へと足を踏み出した。




