EP 15
空洞の器
『――戦慄の圧勝。加藤清麿氏、プロ編入試験で2勝目をマーク』
翌日のスポーツ紙やネットニュースは、清麿の勝利を一斉に報じた。
しかし、その見出しに踊る言葉は、桐生五段を倒した時の「熱狂」や「称賛」とは明らかに異なっていた。
『まるで精密機械』『感情を失った怪物』『対局室を支配した異常な冷気』。
記者たちが書き立てたのは、清麿の強さに対する純粋な「恐怖」だった。狩谷四段が対局中に見せた、あの異常なまでの怯えとパニック。それが画面越しにも伝わり、視聴者すらも息を呑むような不気味な対局だったのだ。
日本将棋連盟の一室。
モニターで昨日の対局の録画を見つめていた星野四段は、手元のペットボトルを握りしめたまま、微動だにしていなかった。
「……星野君? どうしたの、そんな怖い顔して」
通りかかった先輩棋士が声をかけると、星野はゆっくりと振り返った。
いつも無邪気な笑顔を絶やさない少年の顔から、一切の表情が抜け落ちていた。
「……これ、将棋じゃないよ」
「え?」
「加藤さん、僕と指した時はあんなに苦しそうで、でも必死に足掻いてたのに……昨日の加藤さんは、何も考えてない。ただ、決まった答えを盤の上に置いてるだけだ」
星野はモニターの中の清麿を指差した。
「空っぽだ。あの人の中にはもう、将棋を楽しむ心も、勝とうとする意志もない。……ただの『容れ物』になっちゃった」
天才ゆえの直感。
星野は、清麿が人間としての魂を売り渡し、得体の知れない「何か」に変貌したことを、誰よりも正確に嗅ぎ取っていた。
◇
同じ頃。
1LDKのボロアパートでは、異様な静寂が支配していた。
「……清麿。ご飯、食べないの?」
和令が買ってきたコンビニの弁当が、ちゃぶ台の上で完全に冷め切っていた。
部屋の隅に座る清麿は、ピクリとも動かない。
視線は虚空を見つめ、瞬きの回数は異常なほど少ない。
まるで、電源を落とされたロボットのように、部屋の景色と同化している。
「……必要分のカロリーと水分は、朝に摂取した」
抑揚のない、平坦な声。
それは、かつて「美味い肉が食いたい」と笑っていた男の声ではなかった。
和令は手首の端末を操作しながら、清麿を観察した。
(精神の切除……ここまで完璧に定着するなんてね)
狩谷戦で見せた、あの絶対零度の指し回し。
清麿は今、日常の生活においてすら、脳のメモリの99%を「未来チャートの維持と検索」に割り当てていた。
怒り、悲しみ、食欲、睡眠欲。
そういった人間らしいノイズを極限まで遮断しなければ、300年分の膨大なデータを瞬時に引き出し、ノータイムで出力し続けることなど不可能なのだ。
『ブブッ』
ちゃぶ台の上に置かれたスマートフォンが、短く震えた。
妹の千代からのLINEだった。
『お兄ちゃん、勝ったの見たよ。おめでとう!
でも……なんだか昨日のお兄ちゃん、すごく怖かった。
無理してない? ちゃんと寝てる?』
画面に表示されたその文面を、清麿は無表情のまま見下ろした。
かつてなら、妹からの心配に胸を痛め、慌てて「大丈夫だ」と返信していただろう。
千代の笑顔を取り戻すことこそが、彼が将棋を指す最後の人間らしい理由だったのだから。
しかし。
「…………」
清麿は、画面をスワイプして通知を消すと、そのままスマホの電源を落とした。
指先に、一切の躊躇はなかった。
「……返事、しなくていいの?」
和令が試すように問う。
「不要だ。次の対局……第4局に向けてのメモリの最適化に、感情のノイズは邪魔になる」
清麿は静かに目を閉じ、深い、機械のような呼吸を一つした。
「あと1勝。それで、プロになる」
その言葉に、熱や執念は微塵も籠もっていなかった。
ただ、インプットされた『条件(クリア目標)』を、システムが音声として出力しただけだ。
「……そうね。あと1勝よ」
和令は薄く笑い、空中に次なる対戦相手のホログラムを展開した。
プロ編入試験、第4局。
これを勝てば、規定の3勝に達し、加藤清麿は史上初の特例プロ入りを果たす。
最後の関門となる試験官は、新四段の中でも異端中の異端。
現代AI研究の申し子と呼ばれ、自らを「ソフトの代行者」と名乗る男、水上四段だった。
「現代のAI(機械)と、未来のAI(機械)。……どっちのシステムが優れているか、答え合わせの時間の始まりね」
和令の言葉に、清麿は何も答えなかった。
ただ、漆黒の虚無を宿した瞳が、静かに盤面を見据えているだけだった。




