EP 14
鼠と鬼
パチリ。
パチリ。
対局室に響く駒音は、メトロノームのように一定で、ひどく無機質だった。
「はぁっ……はぁっ……!」
狩谷四段は、滝のような汗を流しながら盤面に噛み付くように前のめりになっていた。
手元の扇子はすでにへし折れ、畳の上に無惨に転がっている。
(おかしい……なんだこの手は。なんで俺の攻めが、全部見透かされてる……!?)
狩谷の得意戦法は、相手の心理的な隙を突く「奇襲」と「挑発」を織り交ぜた変則将棋だ。かつての清麿は、この狩谷の絡め手に翻弄され、焦りから自滅していくのが常だった。
だから今日も、狩谷は清麿の過去のトラウマをえぐるような、嫌らしい手を連発した。
だが、目の前に座る男には、それが一切通用しなかった。
清麿の瞳には、狩谷という人間の姿は映っていない。
怒りも、焦りも、屈辱もない。
ただ、盤面という絶対的な座標空間において、最も効率的に敵の王将を死に至らしめるための『最適解』を、0.0秒のノータイムで出力し続けているだけだ。
「……くそっ! なら、これならどうだ!!」
狩谷がヤケクソ気味に角を打ち込む。
盤面を複雑化させ、少しでも相手に「考えさせる」ための勝負手。
人間であれば、急に視界を遮られたような不快感を覚え、立ち止まる場面だ。
しかし。
パチリ。
狩谷が駒から指を離した瞬間、清麿の銀がノータイムでその角の頭を押さえつけていた。
「ひっ……!?」
狩谷の喉から、声にならない悲鳴が漏れた。
早すぎる。
そして、正確すぎる。
狩谷が苦し紛れに放った一撃は、清麿にとっては「未来のチャートにおける数億の分岐の、想定内の一つ」に過ぎない。
(こいつ……人間じゃねえ……!)
狩谷の脳裏に、圧倒的な死のイメージがよぎった。
自分がどれだけ知恵を絞り、牙を剥き、必死に噛み付こうとも。
目の前の男にとっては、足元をうろつく小動物の動きでしかない。
それはまさに、鼠が鬼に挑むが如く。
狩谷という一匹の鼠が、暗闇の中で必死に出口を探して走り回っている。
しかし、鬼は最初からすべての出口を塞ぎ、鼠が絶望に染まって自ら死を選ぶまで、ただ冷たく、無表情に見下ろしているのだ。
「っ……あ、ああ……」
狩谷の手が、空中で震え、ピタリと止まった。
盤面を見る。
自玉の周りには、清麿の駒が幾重にも重なり、完全な包囲網を形成していた。
逃げ道はない。
防御も効かない。
自分が今まで指してきた「相手を苦しめるための手」が、すべて自らの首を絞めるためのロープに変わっていたことに、狩谷はようやく気付いた。
「……11手詰め」
不意に、対局室の空気を凍らせるような、低く平坦な声が響いた。
清麿だった。
その目は、相変わらずガラス玉のように濁ったまま、狩谷の玉を見据えている。
「逃げても、受けても、11手で終わる。……指すか?」
それは、対局相手への配慮でも、勝利の宣言でもなかった。
ただの「事実の確認」だった。
機械が、計算結果をモニターに出力しただけの、無慈悲な宣告。
「…………」
狩谷は、何も答えられなかった。
反論する気力も、盤面をひっくり返す怒りすらも、完全にすり潰されていた。
ただ、目の前の『鬼』が放つ絶対的な零度の恐怖に、魂ごと凍りついていた。
「……負け、ました」
狩谷の口から、乾いた砂を吐き出すような声がこぼれ落ちた。
投了。
プロ編入試験、第3局。
星野に完敗し、「才能の壁」に絶望したはずの凡人は。
自らの人間性を完全に切り捨てることで、本物のバケモノへと羽化を遂げていた。
対局室の外でモニターを見つめていた記者たちも、別室の解説者も、水を打ったように静まり返っている。
誰も、この勝利を「素晴らしい」と称賛することはできなかった。
ただ、底知れぬ恐怖と、名状しがたい畏怖の念に打たれ、息を呑むことしかできなかった。
清麿は無言のまま立ち上がり、一礼すらすることなく、対局室を後にした。
その足取りに、かつての泥臭い感情の揺らぎは、もう微塵も残っていなかった。




