EP 12
凡人の慟哭
午後8時。
築40年のアパートの錆びた鉄階段を上る足音は、酷く重かった。
ガチャリ、とドアを開ける。
部屋の中は薄暗く、テレビの液晶画面だけが青白い光を放っていた。
「……おかえり。随分と無様な負けっぷりだったわね」
部屋の隅で膝を抱えていた和令が、振り返りもせずに言った。
手元の端末には、今日の清麿と星野の棋譜がホログラムで表示されている。
「未来のチャートどころか、あんたの得意な『泥沼への誘導』すら完全に力で粉砕されてたじゃない。あんな中学生に、手も足も出ずに」
和令の言葉は、傷口に塩を塗り込むように冷たかった。
普段の清麿なら「うるせえ」と悪態をつき、ビールでも煽っていただろう。
だが。
「……あ、あ……」
清麿は玄関の土間に立ったまま、靴を脱ぐことすらできず、ただ小刻みに震えていた。
「どうしたの? 負け犬根性が再発した?」
和令が冷ややかな目を向ける。
その瞬間。
清麿の膝から力が抜け、その場に崩れ落ちた。
「……無理だ」
掠れた、嗚咽の混じった声だった。
「無理なんだよ……! 勝てない……っ、あんなバケモノに、勝てるわけがないっ……!!」
清麿は床に両手をつき、ポロポロと大粒の涙をこぼし始めた。
30歳。元奨励会三段。
いい大人が、肩を震わせて、まるでオモチャを取り上げられた子供のように泣きじゃくっている。
「未来のチャートがあるから無敵だと思ってた……! 俺の泥臭い10年と、お前の300年分の答えがあれば、天才どもにも復讐できるって……!」
「清麿……」
「でも違った! あいつは、あの星野は……俺が必死に命を削って作った罠を、笑いながら飛び越えてきやがった! 『将棋のセオリー』なんて関係ない! 直感と才能だけで、俺の10年を……俺の人生の全てを、鼻歌交じりに踏みにじったんだ!!」
清麿の脳裏に、星野の無邪気な笑顔が焼き付いて離れない。
『加藤さんの将棋、すっごく苦しそうだったよ!』
あの言葉が、どんな罵倒よりも深く清麿の魂を抉っていた。
「……才能なんだよ。結局、才能なんだ! 奨励会をクビになった日も、今日と同じだった! 俺がどれだけ定跡を覚えて、詰将棋を解いて、泥水すすってしがみついても……あいつら『本物』は、遊びの延長で俺を軽く捻り潰すんだ!」
ギリリ、と床板を引っ掻く音が響く。
清麿の指先から血が滲んでいた。
「……悔しい……っ! 悔しいよぉ……!!」
慟哭。
それは、チート能力を手に入れて驕っていた「偽物の強者」のメッキが剥がれ落ち、ただの「才能に見放された凡人」へと引き戻された男の、生々しい絶望の叫びだった。
「……また、俺は逃げるしかないのか……? ベランダから飛び降りて、千代を借金地獄に落として……」
清麿は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、フラフラと立ち上がり、ベランダの窓へと視線を向けた。
もう嫌だ。あんな絶望をもう一度味わうくらいなら、いっそ。
その時だった。
パァァンッ!!
乾いた、強烈な破裂音が1LDKの部屋に響き渡った。
「……え?」
清麿の顔が横に弾き飛ばされていた。
頬に、火が付いたような激痛が走る。
目の前には、怒りで肩を震わせる和令が立っていた。
彼女は、未来のガジェットの力で実体化させた右手を、振り抜いた姿勢のまま、冷酷な瞳で清麿を射抜いていた。
「……痛いか? 負け犬」
「わ、和令……?」
「泣いてんじゃねえよ。三十路のおっさんが、みっともない」
和令の声は、静かだった。
だが、その内側には、マグマのような激しい怒りと、未来からの覚悟が渦巻いていた。
「……いい? よく聞きなさい。あんたがどれだけ泥水すすってようが、そんなの人間の、ただの『自己満足』よ」
和令は一歩、清麿に詰め寄った。
「才能に勝てない? 当たり前でしょ。あんたは凡人なんだから。じゃあ、なんであんたの手元に『未来の答え』があると思ってんの?」
「……っ」
「人間としての感情、泥臭いプライド、将棋を楽しむ心、負けて悔しいという惨めさ……そんなゴミみたいなもの、全部捨てなさい」
和令の瞳が、青白く、そして残酷に光り輝いた。
「人間をやめろって言ってんの。あんたの全てを捨てなきゃ、『鬼』にはなれない」
和令は、清麿の胸ぐらを掴み、顔を近づけた。
「盤上の殺し合い……『鬼の棲家』を舐めないでよ」
その宣告は、清麿の心臓を鷲掴みにした。
ただのチート使いではなく、未来のシステムと同化し、感情を持たない「バケモノ」へとなるための、最後の扉。
和令の言葉が、泣きじゃくる凡人の絶望を、冷たく、鋭利に切り裂いていった。




