EP 11
泥沼の否定
パチリ。パチリ。パチリ。
対局室に響くのは、星野の軽快な駒音だけだった。
清麿の持ち時間がどんどん削られていく中、星野はほとんど時間を使っていない。
(……繋がらない。ルートが、構築できない……!)
清麿の脳内で、危険を知らせるアラートが鳴り響いていた。
『誘導ルート再検索……エラー』
『該当チャートなし。予測不能』
清麿が盤面を泥沼に引きずり込もうとすればするほど、星野はその泥沼を「楽しい遊び場」として縦横無尽に駆け回る。
「あはっ! 加藤さん、次どうするの? 僕、この局面すっごくワクワクする!」
星野が嬉しそうに笑う。
その笑顔には、清麿を見下すような悪意は1ミリも存在しなかった。
ただ純粋に、将棋というゲームを楽しんでいるだけ。
だが、それが清麿にとっては、何よりも残酷だった。
(ふざけるな……! 俺は、この泥沼を作るために、どれだけの地獄を……!)
清麿は歯を食いしばり、必死に手をひねり出す。
未来のAIすらバグらせる、人間の泥臭い執念の一手。
佐伯を沈め、桐生を幻惑した、清麿の最大の武器。
「7七桂馬……!」
清麿が勝負手を放つ。
これならどうだ。この複雑な絡み合い、論理で解を出すには30分はかかるはずだ。
その間に、なんとか未来のルートに――
「わぁ、凄い手! ……でも、こうやったら僕の勝ちだね!」
パチン!
星野が指した一手。
それは、清麿が想定していたあらゆる防衛線を、一瞬にして無に帰す「神の一手」だった。
論理ではない。計算でもない。
ただ盤面を見た瞬間に「これが一番美しい」と直感で選ばれた、圧倒的な才能の閃き。
「あ……」
清麿の手から、ポロリと扇子がこぼれ落ちた。
盤面を見る。
ぐちゃぐちゃだったはずの泥沼が、星野のたった一手によって、まるで澄み切った泉のように美しく整頓されている。
そしてその泉の底には、逃げ場を失った清麿の王将が、無惨に沈んでいた。
(……なんだ、これ)
未来のチャートは、完全に沈黙している。
そもそも、星野の指し手は『現代の常識』も『未来のデータ』も超越していた。
定跡というレールに乗っていない星野を、未来のレール(チャート)に接続することなど、物理的に不可能だったのだ。
「……」
清麿は、呼吸の仕方を忘れたように宙を見つめた。
才能の壁。
10年間、奨励会で何度も何度もぶち当たり、その度に血を流してきた、絶対的で理不尽な壁。
チートを手に入れて、もう二度と味わうことはないと思っていた『凡人の絶望』が、今、全く同じ質量で清麿を押し潰していた。
「……加藤さん?」
星野が不思議そうに小首を傾げる。
「どうしたの? まだ指せるよ? 僕、加藤さんの面白い将棋、もっと見たいな!」
悪気のない、純粋な無邪気さ。
それが、清麿の心を完全にへし折る、最後のトドメだった。
「……負け、ました」
清麿の口から、掠れた声がこぼれ落ちた。
投了。
未来の知識を引き出すことすらできず、手も足も出ない、完全なる敗北。
「えーっ、もう終わり!? つまんないの!」
星野は本気で残念そうに唇を尖らせた。
「加藤さんの将棋、最初は面白かったけど、途中からすっごく苦しそうだったよ! もっと楽しく指さなきゃダメだよ!」
楽しく指す。
その言葉が、清麿の胸を鋭利な刃物でえぐった。
泥水の中で息もできずにもがいていた人間に、陽の当たる場所を飛ぶ鳥が「どうして楽しく空を飛ばないの?」と無邪気に問うているのだ。
清麿は何も言い返せず、ただ震える手で、散らばった駒を片付けることしかできなかった。
プロ編入試験、1勝1敗。
天才という名の無邪気な死神が、清麿から「未来の希望」を完全に奪い去った瞬間だった。




