EP 2
「い、ってぇ……鼻が折れたかと思った……」
清麿は鼻血を押さえながら、よろよろと起き上がった。
築40年の安アパートの床が、ミシミシと悲鳴を上げている。
目の前には、セーラー服のような近未来的な衣装を着た少女が、汚部屋の惨状を眺めて顔をしかめていた。
「うっわ……何この部屋。ゴミ屋敷じゃない。男やもめの30歳、ここに極まれりって感じね」
少女は足元の空き缶を、つま先で器用に蹴飛ばした。
「そ、それで……君は誰なんだ? 空から降ってきたけど……」
「加藤和令。あんたの10代後の子孫よ。2326年から来たわ」
「に、2326年……? 子孫……?」
頭が追いつかない。
自殺しようとした瞬間に、未来人が降ってきてドロップキックを食らう。
走馬灯にしてはアバンギャルドすぎる。
「信じられない顔ね。ま、無理もないか。この時代の人間はまだ『時間跳躍』の概念がないし」
和令と名乗った少女は、手首に巻いたブレスレットのような端末を操作した。
空中にホログラムのウィンドウが浮かび上がる。
そこには、清麿の顔写真と、【死亡予定日:2026年2月18日(未遂)】という文字が表示されていた。
「これを見なさい。これが正史……つまり、あんたが今ここで飛び降りた場合の未来よ」
清麿は恐る恐るその画面を覗き込んだ。
「未遂……? 俺は死ねないのか?」
「そうよ。ここ5階でしょ? 下の植え込みと電線がクッションになって、あんたは即死できない。全身を複雑骨折して、脊髄を損傷し、脳挫傷で意識不明の重体になる」
和令の声は冷徹だった。
「あんたは植物人間になるの。意識はないけど、心臓だけは動いてる状態。それを誰が面倒見ると思う?」
「……千代か?」
「当たり。両親はあんたを見捨てるけど、千代おばあちゃんだけは違う。『兄さんはまだ生きてる』って、必死に働くの。昼はパート、夜は水商売、それでも足りなくて闇金に手を出して……」
想像するだけで吐き気がした。
あの優しい妹が、自分のせいでボロボロになる。
死んで楽になろうとした結果が、妹への拷問だなんて。
「……そ、そんな」
「医療技術が進歩して、あんたは『コールドスリープ』の被験体にされる。治療費の代わりに体を実験台に提供するのよ。でも、その保管料すら子孫に請求が来る」
和令は画面をスワイプした。
真っ赤な文字で【借金残高:3億4000万円】と表示されている。
「これが今の私に残された借金。あんたの維持費よ! おかげで私は極貧生活! 将棋のプロを目指してるけど、バイト漬けで勉強時間も取れなくて連敗続き! 全部あんたのせいよ!」
バン! と和令が畳を叩く。
清麿は言葉を失った。
自分は、死ぬことすら許されないのか。
生きていても迷惑をかけ、死のうとしても未来永劫迷惑をかけ続ける。
「俺は……どうすればいいんだ……」
膝から崩れ落ちる清麿。
そんな彼を見下ろして、和令はふん、と鼻を鳴らした。
「解決策は一つよ。あんたが『勝つ』こと」
「勝つ……?」
「そう。将棋で勝って、賞金を稼いで、真っ当な人生を歩むの。そうすれば歴史が変わって、借金も消える」
清麿は力なく首を振った。
「無理だ……」
「は?」
「無理なんだよ! 俺には才能がない! 10年やったんだ! 10年やって、三段リーグを抜けられなかった! プロになれなかったんだ! 今さら将棋なんて……」
才能がない。
その言葉は、清麿自身が誰よりも噛み締めていた呪いだ。
努力だけでは超えられない壁。
天才たちに踏みつけにされ、嘲笑された記憶が蘇る。
「……ふーん。『才能』ねえ」
和令は呆れたようにため息をついた。
そして、部屋の隅に転がっていた将棋盤を拾い上げた。
埃を払い、駒を並べ始める。
「じゃあ、私と指して」
「え?」
「私が勝ったら、私の言うことを聞く。あんたが勝ったら……好きにしていいわよ。また飛び降りれば?」
「……本気か?」
清麿の中に、僅かな火が灯った。
腐っても元奨励会三段だ。
目の前の少女は20歳。未来人とはいえ、プロでもないらしい。
今の自分でも、素人に負けるはずがない。
「いいだろう。……やってやる」
清麿は盤の前に座った。
久しぶりに触れる駒の感触。
だが、指先が震える。
(負けたらどうしよう)(また笑われるんじゃないか)
思考のノイズが邪魔をする。
「先手はあげるわ。どうぞ」
和令は頬杖をついて、退屈そうに言った。
その態度は、かつて自分を見下した奨励会の天才たちと重なった。
「……なめるなよ!」
清麿は初手を指した。
定跡通りの進行。
しかし、中盤に差し掛かったあたりで、和令の手が変わった。
「な、なんだその手は……?」
見たこともない手だった。
定跡から外れている。悪手だ、と直感した。
だが、数手進むにつれて、清麿の陣形がきしみ始めた。
「え……嘘だろ……?」
受けがない。
どこをどう受けても、崩壊する。
まるで、最初から詰みまでのルートが決まっていたかのように、清麿の王将が追い詰められていく。
「……負けました」
清麿は頭を下げた。
完敗だった。
手も足も出なかった。
300年後の未来人相手とはいえ、こうもあっさりと捻り潰されるとは。
「……やっぱり、俺には才能なんてないんだ」
涙が滲む。
盤上の駒が歪んで見える。
「バーカ」
和令の声が降ってきた。
「分かった? 才能なんて関係ないのよ」
「……え?」
「今の私の将棋、どう思った?」
「……強かった。読みが深くて、俺の手が全部見透かされてるみたいで……」
「違うわよ」
和令はスマホを取り出し、画面を清麿に向けた。
「私は『読んで』ない。今の対局、全部この『チャート』通りに指しただけ」
画面には、複雑な樹形図のようなものが表示されていた。
将棋の局面が、無数の分岐として描かれている。
「未来の将棋はね、もう『解析』が終わってるの。AIが全ての局面の正解を出し尽くしちゃったのよ」
「全ての……正解?」
「そう。だから未来の将棋は、思考ゲームじゃない。記憶力テストよ」
和令はニヤリと笑った。
悪魔的な笑みだった。
「勝ち筋は決まってるの。相手がこう来たら、こう返す。そのパターンを全部丸暗記すれば、誰でも最強になれる。それが300年後の常識」
「あ、暗記……?」
「そう。あんたに必要なのは『才能』じゃない。『答え』を覚える根気だけ」
和令は清麿の胸を指差した。
「3段の雑魚のあんたでも、答え(カンニングペーパー)を持っていれば、現代の天才たちをボコボコにできるわよ。……やってみる気、ない?」
清麿はゴクリと唾を飲み込んだ。
才能がいらない世界。
努力(暗記)だけで、頂点に立てる世界。
それは、敗北者にとって、あまりにも甘美な誘惑だった。




