EP 6
0.0秒の処刑執行
「……香車を、上げた?」
桐生五段は、目の前の男が指した手が理解できなかった。
自玉に王手がかかっている。放置すれば詰む。それなのに、盤の隅にある関係ない駒を動かしたのだ。
(……錯乱したか。所詮は素人、大舞台のプレッシャーで指が滑ったな)
桐生は心の中で冷笑し、扇子をパチンと鳴らした。
「残念ですね、加藤さん。あなたの奇行に付き合うつもりはありません。これで終わりです」
桐生は、清麿の玉の逃げ道を塞ぐように、決定的な一手を放った。
『5七銀・打ち』
これで清麿の玉は、上下左右、どこにも逃げ場がない。完全な包囲網の完成だ。
『ああっ! 桐生五段、決めに行きました! これで加藤氏の玉は必至(助からない状態)です!』
別室の解説者が興奮気味に叫ぶ。
配信のコメント欄は、清麿への嘲笑で埋め尽くされた。
【はい終了www】
【ツール無しだとこんなもんかよ】
【王手放置とか初心者かよ。プロなめんな】
【加藤、顔真っ青じゃん。泣くの?】
数百万人が、清麿の無様な敗北を確信した。
だが、対局室の空気だけは違っていた。
「……終わり? 何がだ?」
清麿の声は、氷点下のように冷たかった。
桐生が勝利を確信したその盤面。
それは、清麿の脳内にある**『未来チャート第73番・基本図』からの分岐ルート、その「1手目」**と完全に一致していた。
「ここからが『始まり』だろ」
パチリ。
清麿の手が伸びた。
桐生が指を離してから、わずか0.1秒。
人間が目で見て、脳で考え、筋肉を動かすまでの反応速度を遥かに超えた、神速の一手。
「なっ……早っ!?」
桐生が驚愕する間もなく、清麿が指した駒が盤面を切り裂いた。
それは、桐生の包囲網のわずかな隙間を縫うように、敵陣深くへと突き刺さる角打ちだった。
(……は? なんだその手は。ヤケクソの王手か?)
桐生は瞬時に計算する。この王手は、玉が逃げれば簡単に受かる。無駄なあがきだ。
そう判断し、桐生は玉を安全地帯へと逃がした。
だが、その瞬間。
パチリ。
再び、0.1秒。
清麿の2手目が、桐生の玉の逃げた先に先回りするように打ち込まれた。
「……え?」
桐生の思考がフリーズした。
おかしい。
自分が玉をどこに逃すか、清麿は見ていなかったはずだ。
なのに、まるで「そこに逃げることを最初から知っていた」かのように、完璧なタイミングで追撃の手が飛んできた。
(ま、まさか……読んでいたのか? 私の思考を? いや、そんな馬鹿な!)
桐生の額に、冷たい汗が滲み始める。
彼は再び長考に沈んだ。今度は慎重に、あらゆる可能性を潰し、絶対に安全な逃げ道を探す。
1分、2分……5分が経過した。
『桐生五段、長考です。加藤氏の猛攻をどう凌ぐか……慎重に読んでいますね』
解説者が場を繋ぐ。
そして、桐生がようやく「これしかない」という最善の受け手を指した、その瞬間。
パチリ。
0.1秒。
またしても、清麿の手が即座に返ってきた。
「……ひっ!?」
桐生が小さな悲鳴を上げた。
あり得ない。
自分が5分かけてひねり出した最善手を、この男は考慮時間ゼロで、さらに上回る最善手で返してきた。
これは対局ではない。
あらかじめ答えの決まっている作業を、淡々とこなされているだけの――『処刑』だ。
『えっ……ちょ、ちょっと待ってください! 評価値が!』
解説室が騒然となった。
配信画面の隅に表示されていた、現代最強の将棋AIによる形勢判断バー。
今の今まで【桐生五段・勝率99%】と真っ赤に染まっていたバーが。
清麿の3連続ノータイム指しによって、突如としてバグったように激しく点滅し、次の瞬間。
【Nanashi_30(加藤清麿)・勝率99%(詰みあり)】
真っ青な色に反転した。
【はあああああああ!?】
【ファッ!?】
【評価値壊れたwww】
【待て、詰みありって何だ!? どこに詰みがある!?】
【AIがバグった? それとも……】
コメント欄の流れが止まった。
数百万人の視聴者が、画面の向こうで息を呑む。
(……見つけた。現代のAIがようやく追いついたか)
清麿は脳内のチャートと、現実の盤面を照らし合わせる。
あと15手。
現代のプロが見たら卒倒するような、長手数の即詰みルート。だが、未来の視点で見れば、それは舗装された一本道に過ぎない。
「……くっ、ううっ……なんでだ、なんでどこにも逃げ道がない……!」
対局室では、桐生が顔面蒼白になりながら、震える手で駒を動かしていた。
プロの誇りも、余裕も、見る影もない。
ただ、見えない巨大な何かに首を絞められ、必死に空気を求めてあがく溺死者のようだった。
「……チェックメイトだ」
清麿が小さく呟いた。
パチリ、パチリ、パチリ。
正確無比なリズムで刻まれる駒音は、桐生にとって死神の足音に聞こえただろう。
そして、15手後。
「……詰み、です」
清麿が最後の銀を、桐生の玉の頭に静かに置いた。
盤上には、どこにも動けない玉が一つ、惨めに転がっていた。
「…………」
桐生は、投了の言葉すら発せなかった。
呆然と盤面を見つめ、魂が抜けたように座り込んでいた。
完全な密室。金属探知機による検査。数百万人の監視。
その全ての条件下で。
「ツール使いの疑惑」をかけられた元奨励会員が、現代最強の若手プロ棋士を、ノータイムで完膚なきまでに叩き潰した。
『……と、投了……! 勝ったのは……加藤清麿さんです!!』
解説者の震える声が響き渡った瞬間。
止まっていたコメント欄が、核爆発のような勢いで流れ出した。
【うおおおおおおおおおお!!!】
【マジかよ!!!!】
【ガチで勝った……しかもノータイムで桐生をボコったぞ!?】
【ツールじゃなかった……本物だ……本物の化け物だ!】
【俺たちはとんでもない勘違いをしていたのか!?】
手のひら返しの大熱狂。
罵倒は称賛へ、疑惑は畏怖へと変わった。
清麿はゆっくりと顔を上げた。
カメラの向こうにいる数百万人の視聴者、そして、アパートでこの配信を見ているであろう和令と、妹の千代に向けて。
「……見たか」
清麿は、静かに、しかし力強く告げた。
「これが、俺の頭の中にある将棋の『すべて』だ」




