EP 5
丸腰の怪物と、盤上の『誘導』
決戦の日は、あっという間に訪れた。
日本将棋連盟・特別対局室。
普段はタイトル戦などに使われるその由緒正しき和室は、今日に限っては異様な空気に包まれていた。
部屋の四隅には高画質の定点カメラが設置され、別室の配信スタジオでは、解説のプロ棋士と数百万人の視聴者がこの「公開処刑」を待ち構えている。
「加藤さん。スマートフォン、スマートウォッチ等、電子機器は全てこちらのトレイへ。……それでは、金属探知機を通ります」
連盟の職員が、冷たい事務的な声で清麿の全身をスキャンする。
『ピーッ』という音は鳴らない。清麿はヨレヨレのスーツのポケットを裏返し、何も持っていないことを証明した。
「……随分と、堂々としているんですね」
対局室の上座。
和服に身を包んだ桐生五段が、冷ややかな視線を向けてきた。
「不正ツールを剥奪され、大勢の監視下に置かれた丸腰の人間は、もっと怯えるものだと思っていましたよ」
「丸腰?」
清麿は下座にドカッと座り、自らのこめかみをトントンと指で叩いた。
「俺はいつだってフル装備だぜ。この頭の中に、将棋の『全部』が詰まってるからな」
「……虚勢を。あなたの底の浅い将棋は、これから数百万人の前で白日の下に晒されることになります」
桐生が不快そうに扇子を開く。
別室の配信画面では、コメント欄がすでにすさまじい勢いで流れていた。
【加藤きたあああああ】
【金属探知機クリアしたってマジ?】
【どうせツール無しじゃ序盤でボコボコにされて泣き出すだろw】
【桐生先生、公開処刑おねがいします!!】
【絶対に許すな! ツール使いにプロの恐ろしさを教えてやれ!】
世論は完全に桐生側。清麿は「将棋界を荒らした悪のチーター」として断罪される運命にあると、誰もが信じて疑わなかった。
「……時間です。両対局者、礼」
記録係の声が響く。
「お願いします」
深く頭を下げる桐生に対し、清麿は浅く一礼し、駒箱に手を伸ばした。
対局が始まった。
先手は桐生五段。
初手、飛車先の歩を突く。極めてオーソドックス、かつ最も力強い一手。
清麿も即座に角道を開け、応じる。
『さあ、始まりました! 注目の対局。桐生五段は得意の「角換わり最新形」を目指す構えでしょうか!』
別室の解説が熱を帯びる。
桐生の指し手は速く、そして鋭かった。
プロの最前線で日夜研究を重ねている彼にとって、序盤の数十手はすでに「結論」が出ている一本道。もし相手がツールを使っていなければ、この序盤の深い研究だけで、アマチュアなど一瞬で土俵際まで押し込める。
(さあ、どう受ける? ツール頼りの紛い物め)
桐生は心の中で冷笑した。
だが。
「……3二金」
清麿の指し手に、桐生はわずかに眉をひそめた。
(なんだ、今のぬるい手は? 最新の定跡から外れているぞ)
清麿の陣形は、桐生の鋭い攻めに対して、どこか不格好で、泥臭かった。
だが、崩れない。
桐生が仕掛けた「罠(プロの最新研究)」を、清麿はまるで知っていたかのように、のらりくらりと躱していく。
『おっと!? 加藤氏、ここは定跡を外してきました! いや、外したというより……桐生五段の攻めを、真正面から受けずにいなしています!』
解説の声に、コメント欄もざわつき始める。
【あれ? 加藤、普通に指せてね?】
【ツール無しで桐生五段の序盤研究についていってんの?】
【いや、陣形クソダサいぞw アマチュア特有の泥仕合に持ち込む気だ】
「……ふん。素人が、泥仕合でプロの私を誤魔化せるとでも?」
桐生は鼻で笑い、強烈な一撃(銀の打ち込み)を放った。
陣形を乱してでも相手をねじ伏せる、プロの剛腕。
並のアマチュアなら、この一発で頭が真っ白になり、投了に追い込まれるだろう。
だが、清麿は一切動じなかった。
(……来たな。ここだ)
清麿の脳裏に、あの1LDKのアパートで和令と繰り返した『地獄のセットアップ特訓』の光景が蘇る。
相手が最新定跡で来ようが、奇手で来ようが関係ない。
清麿の目的は「この場で最適な手を考えること」ではない。
自分の脳細胞に焼き付けた、未来の『必勝チャート(特定の盤面)』へと、相手を強引に誘導することだ。
「同歩」
清麿はノータイムで銀を取り返した。
「なっ……!?」
桐生が息を呑む。
それを取れば、清麿の玉の頭が完全にガラ空きになる。自殺行為だ。
「……狂ったか。それとも、やはりツール無しではその程度の手しか見えないのか」
桐生は勝利を確信し、すかさず飛車を急所に成り込ませた。
『王手』。
これでもう、清麿の陣形は崩壊だ。誰の目にもそう見えた。
だが、清麿は微かに笑った。
まるで、喉元に突きつけられた刃すらも、自分の計画の一部であるかのように。
「……いや。俺の『準備』が整っただけだ」
パチリ、という音が、静寂の対局室に響いた。
清麿が指した一手。
それは、ガラ空きになった玉を逃がす手ではなく、盤面の端にポツンと置かれていた「香車」を一つ進めるという、意味不明な手だった。
『えっ……? か、加藤氏!? 今のは……どういう意味の手なんでしょうか!? 王手がかかっているのに!』
解説のプロ棋士が絶叫する。
【は?】
【操作ミス?】
【バカなの? 終わったじゃん】
【やっぱりツール無しの雑魚だったwww】
コメント欄が「清麿の敗北」を確信し、一斉に沸き立った。
しかし。
対局室に座る桐生五段だけは、笑っていなかった。
いや、笑えなかった。
彼の手元にある、清麿の玉を仕留めるための無数の選択肢。
飛車で金を取るか。角を打ち込むか。桂馬を跳ねるか。
どれを選んでも勝てるはずなのに。
(……なんだ、これは)
桐生の背筋に、氷のような悪寒が走った。
盤面全体を見渡した時。
自分が優勢だと思っていたこの「泥沼の盤面」が、まるで巨大な蟻地獄のように、たった一つの結末に向かってすり鉢状に傾いていることに気づいたのだ。
清麿が自分の陣形をボロボロにしてまで作り上げた、この歪な空間。
それは、現代の将棋のセオリーでは絶対に現れない『異次元の盤面』。
「……誘導、完了だ」
清麿は、深く息を吐き出した。
カチリ、と。
脳の奥底のスイッチが切り替わる音がした。
ここから先は、もう「考える」必要はない。
和令との地獄の特訓で構築した『誘導』により、盤面はついに、清麿の脳髄に焼き付けられた『未来チャート・第73番基本図』に完全に合流したのだ。
「さあ、桐生五段」
清麿の瞳から、人間らしい感情がスッと消え去った。
残ったのは、300年分の将棋の答えを全て知っている、冷酷無比なシステムの光。
「……ここから先は、『答え合わせ』の時間だ」
現代の天才プロ棋士に対する、未来の解答録による蹂躙が、今、数百万人の目の前で始まろうとしていた。




