EP 10
盤上のコールドスリープからの覚醒
佐伯健太を打ち破った後、清麿の前に敵は存在しなかった。
決勝戦の相手はベテランのアマ強豪だったが、もはや清麿の敵ではなかった。
佐伯戦で自身の「泥沼の力」と「未来のチャート」を完全にリンクさせる感覚を掴んだ清麿は、無慈悲なまでの速度と正確さで盤面を制圧した。
開始からわずか40分。
相手が深々と頭を下げ、会場に割れんばかりの拍手が巻き起こる。
「……優勝は、加藤清麿選手!」
フラッシュが焚かれ、賞金50万円の巨大なパネルが手渡される。
「元奨励会の意地を見せましたね」「AIを超えるような終盤力でした」と、マイクを向けられ群がる記者たち。
少し前まで面接で鼻で笑われ、1LDKのゴミ屋敷で首を吊ろうとしていた男が、今、無数の称賛の的になっていた。
◇
大会終了後。
夕暮れの市民ホールの裏口で、清麿は大きく伸びをした。
手には、しっかりと50万円の現金が入った封筒が握られている。
「ふふん、これでとりあえず当面の生活費と、私のスイーツ代は確保ね」
ステルスを解いた和令が、清麿の隣で得意げに笑う。
彼女の手首の端末が、ピロン、と軽快な音を立てた。
「おっ。歴史変動が入ったわ」
「……借金、減ったか?」
「ええ。あんたが『ただの植物人間』になる正史は完全に回避された。加藤家が抱えていた3億の負債が……ほら、一気に半分以下になったわよ!」
ホログラムの数字が、凄まじい勢いでカウントダウンしていく。
和令が嬉しそうに飛び跳ねるのを見て、清麿はふっと息を吐き、自分のスマートフォンを取り出した。
ずっと未読無視していた、妹・千代からのLINE。
『就職、決まった?』
『お金、振り込もうか?』
清麿は震える指で、画面をタップした。
『心配かけてごめん。就職はしてないけど、金は稼いだ。将棋で。今度、美味いもんでも食いに行こう』
送信ボタンを押す。
すぐに『既読』がつき、スタンプが返ってきた。
泣き笑いしている、不格好なウサギのスタンプ。
それを見た瞬間、清麿の目からボロボロと涙がこぼれ落ちた。
「なんだ、泣いてんの? 30のおっさんがキモいわね」
「……うるせえ。目にゴミが入っただけだ」
清麿は乱暴に涙を拭った。
生きている。
自分は今、確かに生きている。
絶望の底で凍りついていた時間が、未来からのドロップキックによって、再び動き出したのだ。
「さて、感動の涙も流したことだし。次よ、清麿」
「次? アマの大会はもう……」
「アマチュアで小銭稼ぎなんて、私のご先祖様には似合わないでしょ」
和令がニヤリと笑った、その時だった。
「――加藤さん。やはり、あなたでしたか」
背後から声をかけられ、清麿は振り返った。
そこに立っていたのは、高級なスーツに身を包んだ、涼やかな目元の青年だった。
周囲を歩く将棋ファンたちが、一斉に足を止めてざわつき始める。
「おい、あれって……」
「竜将タイトルの……藤堂先生じゃないか!?」
清麿も息を呑んだ。
藤堂。
清麿が奨励会時代、まだ中学生だった彼に、よく将棋を教えてやった後輩だ。
今や将棋界の頂点に立つ、若き天才タイトルホルダー。
「藤堂……お前、なんでここに」
「あなたの棋譜を、たまたま控え室で見ていたんです」
藤堂の目は、かつての無邪気な少年のものではなく、深淵を覗き込むような底知れぬ剣呑さを帯びていた。
「恐ろしい将棋でした。前半の泥臭さと、後半の機械のような正確さ。……あの将棋を、アマチュアの海に放っておくわけにはいきません」
「……」
「加藤さん。『プロ編入試験』、受けてみませんか。今のあなたなら、絶対に届く」
プロ編入試験。
アマチュアで圧倒的な成績を残した者だけが挑戦できる、特例のプロ入りルート。
それは、26歳で夢を絶たれた清麿にとって、不可能だと思っていた「開かずの扉」だった。
「藤堂……俺は」
「盤の向こう側で、待っていますよ」
藤堂は静かに一礼すると、夕闇の中へと消えていった。
「……聞いた、清麿?」
和令が、清麿の背中をバンと叩いた。
「アマチュアの賞金なんてたかが知れてる。あんたがプロになって、タイトルを総なめにしてくれれば、私の借金はマイナスどころか、莫大な遺産に変わるわ!」
清麿は手元の封筒を強く握りしめた。
脳内で、和令から与えられた未来のチャートが静かに脈打っている。
そして、その奥底には、自分が10年間で培った「泥臭い闘志」が燃え上がっていた。
「……ああ。やってやるよ」
清麿は、見上げるような夜空に向かって不敵に笑った。
「300年分の将棋の答え……現代の天才どもに、たっぷり教えてやろうぜ」




