6 薬師の役目6
小屋を出る頃には、すでに日は高く昇っていた。
遥香は身を隠すように黒いローブを頭から被り、レオニスの後ろを歩く。
草木が生い茂る森の中。足元の枝が、ぱきりと小さく音を立てた。
その一つひとつが、やけに大きく感じる。
そのとき――
「あの女、どこへ逃げたっ!」
茂みの奥から、怒鳴り声が響いた。
「……っ」
遥香の心臓が、どくりと嫌な音を立てた。
「……伏せろ」
レオニスが短く言い、遥香の頭をぐいと胸元へ押し付けた。
そのまま、低い姿勢で茂みに身を潜める。
ーーザクッ、ザクッ
土を踏みしめる音が近付いてくる。
「くそっ!」
すぐ近くで、男の声が響いた。
――ザンッ!!
鋭い音とともに、木の幹が斬られる。
葉がばさばさと落ちてきた。
「……っ」
遥香は必死に息を殺した。
呼吸音が、うるさい。
自分の呼吸が、聞こえてしまいそうだった。
また足音が、近づいてきた。草を踏み締めて歩く、複数の気配がする。
「昨夜逃げたのは、間違いないんだ!」
「まだ森の中にいるはずだ、探せ!!」
苛立った声が飛び交う。
(この声……)
遥香の背筋が凍りついた。
昨夜、エルダを連れていった男達の声だ。
「……っ」
遥香は震える手を、ぎゅっと握りしめた。
すると、レオニスの手が、ぐっと強く遥香の頭を押さえた。
レオニスが“動くな”と、目だけで告げる。
足音が、さらに近づいて来た。
そして、遥香達が身を潜めている茂みのすぐ前で止まった。
「……ここも、怪しいな」
男の声が、すぐ上から降ってくる。
(見つかる……!)
遥香は、ぎゅっと目を閉じた。
――ザッ。
草を踏み分ける音。
剣先がすぐ横の枝をかすめ、葉が揺れる。
あと一歩で、届く距離だ。
そのとき――
「おい! こっちに足跡があるぞ!」
少し離れた場所から、別の声が上がった。
「何!?」
目の前の男が舌打ちして、振り向く。
「ちっ……そっちだ!」
足音が離れていき、男の気配は遠ざかった。
森は再び、静寂に包まれた。
「……行ったか」
レオニスが小さく呟く。
遥香は、ゆっくりと顔を上げた。
「……は、い……」
その声は震えていた。
「立てるか」
レオニスが手を差し出す。
「……はい」
遥香は何とか頷き、その手を取って立ち上がった。
「急ぐぞ。もう時間がない」
レオニスの言葉に、遥香は強く頷いた。
建物の影に身を潜めるようにして街を抜け、二人はようやく城の建つ小高い丘へと辿り着いた。
そこまで――遥香は一度も後ろを振り返らなかった。いや、振り返れなかった。
ゆっくりと開く城門をくぐった、その瞬間。
遥香はその場に崩れ落ちた。
張り詰めていたものが、ぷつりと切れたのだ。
「エルダ、さん……っ」
息がうまく吸えない。頭の中はぐちゃぐちゃで、何も整理できなかった。
浮かぶのは――エルダの笑顔。
自分を押し込めた、あの手。
「……私の、せいだ」
遥香は両手で顔を覆った。
「私が……いたから」
視界がじわりと滲む。
「私が、あんな薬なんて……作ったから……」
後悔の言葉が、止まらない。
止められない。
レオニスは少し離れた場所で、静かに遥香を見ていた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「本当に、そう思うか?」
「……」
遥香は、唇を強く噛んだ。血の味が口の中に広がる。
「何度も言うが、お前にしか神の病は治せない」
レオニスは、噛み締めるようにゆっくりとそう言った。
「現に父は助かった。お前の薬のおかげだ」
そのレオニスの言葉に、遥香の目からは涙が溢れ落ちた。
「う……っ、エルダ……さん」
遥香の目から、次から次へと涙が溢れ落ちてくる。
「お前が悪いのではない。悪いのはーー」
ーーバサッ
レオニスの紺色のマントが風にはためいた。
(……そうだ)
遥香は、ゆっくりと顔を上げた。
涙で濡れたその瞳には、確かな熱が宿っていた。
「……助けます」
ぽつりと。だが、はっきりと遥香は言った。
「必ず、エルダさんを……助けます!」
遥香のその目には、もう迷いはなかった。
「……策は、あるのか?」
レオニスが、わずかに目を細める。
「……いえ」
遥香はゆっくりと首を横に振った。
「教会に連れて行かれた時点で、命の保証はない」
レオニスが現実を突きつける。
それでもーー
「……全部、暴きます」
遥香は静かに言い切った。
「そう簡単には、いかないぞ」
「それでもです」
遥香は引かなかった。
「絶対に、許さない」
遥香は強く言った。
その目を見て、レオニスは小さく息を吐いた。
「……いいだろう。だが、無策で突っ込むのは許さない」
レオニスが静かな声で告げた。
「ええ、分かってます」
遥香は強く頷いた。
「……何をしてでも、絶対に取り返す」
遥香のその声に、もう迷いはなかった。
**********
――同じ頃。
薄暗い教会の地下。
冷たい石壁に囲まれたその空間で、二人の男が無言で立っていた。
その正面――壁には、縄で縛られた女が張り付けられている。
ーーバシッ
冷たい石の部屋に、乾いた音が響いた。
女の顔が横に弾かれる。頬が赤く腫れ、じわりと血が滲む。
「……はっ、痛くないね」
女は、笑った。
「これで喋ると思ってんのかい?」
女が心底おかしそうに言う。
神官の眉がぴくりと動く。
「命が惜しければ、魔女•遥香の居場所を言え」
神官は地を這うような低い声でそう言うと、エルダの首をギリッと締め上げた。
「……知ら、ないね……っ」
エルダは息も絶え絶えに、それでも吐き捨てる。
次の瞬間――
ドンッ!!
腹に、容赦のない蹴りが叩き込まれた。
「……っ、ぐ……!」
エルダが呻いた。口から血が飛び散る。
だが、エルダは荒く息をつきながら顔を上げた。
「……はっ、あんたら……っ、本当に芸がないねぇ」
掠れた声で、なおも笑う。
神官の氷のように冷たい目が、エルダを見下ろす。
「まだ、言わぬか」
その声には、苛立ちが滲んでいた。
「だから、知らないって言ってんだろ」
エルダはそう吐き捨てた。その目は、真っ直ぐだった。
「ま、仮に知ってても――」
エルダはにやり、と笑う。
「誰が、あんたらなんかに言うか」
ドンッ、と地下に再び音が響いた。
エルダの体が大きく揺れる。
それでも、エルダは笑っていた。
何度殴られても、崩れない。
何度蹴られても、折れない。
その様子に、神官は小さく息を吐く。
「……くそっ、面倒な女だな」
神官は忌々しげにそう言うと、背後へ視線をやる。
控えていた男が、一歩前に出た。その手には、小さな瓶が握られていた。
「ふっ、まあいい。これには、抗えないだろう」
そう言うと、神官はニヤリと笑った。
瓶の中では、黒く粘つく液体が揺れている。
エルダの目が、わずかに細まった。だが、すぐに笑った。
「そんなもんに頼るのかい? 教会も落ちたもんだねぇ」
神官は、ゆっくりと口元を歪めて言った。
「……そう言っていられるのも、今のうちだ」
静かな声が――
冷たい地下に、じわりと染みていった。




