3 薬師の役目3
翌朝も、小屋の前には患者たちの列ができていた。
いつも通り、エルダが扉を開け、遥香が薬を手渡していく。
穏やかな朝――の、はずだった。
(……あれ?)
ふと、遥香は違和感を覚えた。
列は途切れていない。患者の数も、ぱっと見では変わらないように思える。
だが――
(昨日より少し、短い……?)
いつもなら森の入口付近まで伸びているはずの列が、今日はその手前で収まっている。
気のせいかもしれない。
そう思いながらも、遥香は無意識に列へと視線を向けた。
(……あれ)
いつも最初に並んでいるはずの顔が、見当たらない。
「どうしました、聖女様?」
女性に声をかけられ、遥香ははっと我に返る。
「あ、いえ……なんでもありません」
笑顔を作り、薬を差し出す。
「これ、今日の分です。途中でやめると効かなくなりますから、頑張りましょうね」
「……はい」
だが、返ってきた声には、どこか戸惑いが滲んでいた。
(……気のせい、だよね)
胸に残る小さな違和感を振り払うように、遥香は次の患者へと向き直った。
**********
翌日、小屋の前に並ぶ人影は――明らかに少なかった。
(……え?)
遥香は、扉の前で足を止めた。
昨日までは、森まで続いていた列。
それが今は、小屋の前に収まりきるほどの列になっていたのだ。
患者は目を伏せ、どこか気まずそうに頭を下げた。
(え? なんで……?)
その様子に胸がざわついたが、遥香はなんとか笑顔を作った。
「お、おはようございます。今日も順番にお渡ししますね」
瓶を手に取り、一人ひとりに抗菌薬を渡していく。
「毎日飲んでくださいね。途中でやめると、効かなくなりますから」
何度も繰り返してきた言葉。
だが――
「……はい」
返ってくる声は小さく、患者達は遥香と目を合わせようとしない。
(どこか、おかしい)
そう思った、そのとき。
「聖女様……!」
列の後方から、悲鳴のような声が上がった。
人々がざっと振り返る。
そこにいたのは――若い男だった。 だが、その様子は明らかに異常だった。
「どうしましたか!?」
遥香は慌てて駆け寄る。
男は、必死に何かを訴えようと口をパクパク動かしている。
やがて、異様に大きな声で叫んだ。
「き、聞こえない……!」
「え?」
その言葉に、遥香は眉をひそめる。
「耳が……音が、全然……!」
男はそう言うと、遥香の腕に縋りついた。
その姿に、周囲が一斉にざわめいた。
「耳が……?」
「まさか、薬のせいか?」
ひそひそとした声が、波紋のように広がっていく。
「いつからですか!?」
遥香は男の肩を掴み、強い口調で問いかけた。
「全然聞こえない! この薬のせいだ! この薬の……っ」
会話が噛み合わない。
男は問いに答えることなく、ただ同じ言葉を繰り返している。
その声はどこか音程がずれていた。――自分の声が聞こえていない証拠だった。
(これは、副作用だ)
遥香は男の様子を冷静に観察する。
(量を調整して、耳の治療を優先しないと)
そう判断し、口を開こうとしたその時。
「本当に大丈夫なのか……!?」
「耳が聴こえなくなるなんて!」
患者達が口々に叫び始めた。完全にパニックを起こしている。
「落ち着いてください! これは薬の副作用で、きちんと調整すれば――」
遥香は必死に声を張り上げ叫んだ。
だが、その言葉は混乱する患者達には届かなかった。
「こんな薬、飲めるか!」
一人の男が怒鳴り、薬を地面に叩きつけた。
「わ、私もやめておくわ」
老婆は薬を机に置くと、そのまま背を向けて去っていく。
「え、あの……待って!」
遥香が声をかける。だが――誰も振り向かない。
次々と患者たちはその場を離れていく。
「……お願い、待って……」
か細い声は、もう誰にも届かなかった。
その背中を、遥香はただ見送ることしかできない。
「教会に行ったら、祈ってもらえるよな?」
「ああ。やっぱり、そっちの方が安心だ……」
患者たちはそう口にしながら、薬を捨て、森の外へと去っていった。
********
一方、教会では、祈祷堂に再び人が集まり始めていた。
「神官様……どうか、お救いください」
跪く人々と、差し出される手。
――それは、かつての光景そのものだった。
神官はゆっくりと手をかざし、満足げに目を細める。
「安心しなさい。神の加護は、常にあなた方と共にある」
神官は低く、穏やかな声で言った。
その言葉に、人々の表情がほっと緩む。
恐怖と不安に満ちた心に、“答え”を与える声。
それは、何よりも甘美なものだった。
祈りを終えた後、神官は静かに口を開いた。
「だが――気をつけなさい。最近、“偽りの聖女”を名乗る者がいる」
ざわり、と人々が顔を見合わせた。
「薬で病を治すなどと、神を冒涜し、民に害を与え、耳が聞こえなくなった者もいると聞く」
その言葉に、あちこちで息を呑む音がした。
「偽りの聖女に従う者は、神の罰を受けるだろう」
恐怖が、人々の顔に浮かぶ。
「やっぱり偽聖女だったのか」
「騙すなんて、許せない……」
人々の間に渦巻いていた疑念が、確信へと変わっていく。
神官は、その様子を見て、ほんのわずかに、口元を歪めた。
**********
夕方。
小屋の前には、もう誰もいなかった。
静まり返った小屋の中で俯く遥香に、エルダがそっと声を掛ける。
「……やられたね」
遥香は、何も答えられなかった。
手の中の薬瓶が、やけに重く感じる。
(効くのに……ちゃんと、治るのに)
それでも、“信じてもらえない薬”は――ただの水と変わらない。
遥香の胸の奥に、じわじわと無力感が広がっていく。
外では、人々が鳴らす教会の鐘の音が絶えず響いていた。
その日を境に、
“聖女”と呼ばれていた薬師は――
静かに、その座から引きずり下ろされ始めた。




