薬師の役目2
患者も途絶えた昼下がり。
遥香はハンスの医院の前に立っていた。
ーーコンコン
いつものように扉を叩くが、中から返事はない。
「あれ? ハンス先生、ティナさん?」
遥香は小さく声を掛け、恐る恐るドアを開けた。
そこには、暗い表情のハンスと、俯いたままのティナの姿があった。
そして、その前には見慣れた紺色の背中――レオニスが立っている。
医院は、まるでお通夜のように重苦しい空気に包まれていた。
「あのぉ……」
遥香が声をかけると、三人はゆっくりとこちらに視線を向けた。
「ああ、遥香くんか」
ハンスが力無く呟く。
「な、何かあったんですか?」
遥香は、ハンスの隣に座るティナへ小声で尋ねた。
「……ええ」
顔を上げたティナもまた、浮かない表情を浮かべている。
「例の件だ」
レオニスが遥香を見て、淡々と言った。
「例の、件……?」
遥香は首を傾げた。
「解毒剤が差し替えられていた件だ」
その言葉に遥香の心臓が、どくりと強く鳴った。
「そ、そうでしたね」
遥香は慌てて頷いた。
連日押し寄せる患者の対応に気を取られ、すっかり忘れていたのだ。
「……なんてことだ」
ハンスは、ぽつりと声を漏らした。
「解毒剤がすり替えられていたことに、気づけなかったなんて」
ハンスはそう言って、自分を責める。
「保管状況は?」
レオニスは淡々とハンスに尋ねる。
「他の薬と一緒に薬棚に保管していたんだ」
ハンスは視線を伏せたまま、答えた。
「施錠は?」
レオニスは腕を組み、間を置かずに次の問いを重ねた。
「いや、していない。けど、診療が終われば、医院ごと鍵をかけている」
そう言って、ハンスはズボンのポケットから小さな鍵を取り出した。
レオニスはその鍵に一瞬目を向け、さらに問いを重ねる。
「医院の鍵を持っているのは?」
「僕、だけだ……」
ハンスはそう言うと、手の中の鍵をぎゅっと握りしめた。
「なるほど」
短く息を吐き、レオニスは薬棚へと歩み寄る。
指先で棚板の縁をなぞりながら、並ぶ瓶の位置を一つひとつ確かめていく。
「いつ、すり替えられたか、だな」
レオニスは振り返ることなく、静かに言った。
「毎日医院を閉める前には、薬棚は確認しているんだけどね……」
ハンスが暗い表情で、そう付け加える。
「では、すり替えた後、時間を置けば気付かれる可能性は高くなるということだな」
レオニスは淡々と整理するように呟いた。
(え? それって……)
遥香ははっとして、レオニスを見た。
「……使用直前に差し替えられた、ということですか?」
「その可能性は、高い」
レオニスは静かに肯定した。
その言葉にティナが、首を傾げる。
「直前? それって、解毒剤を飲む直前ってことですか?」
ティナは目をパチパチと瞬かせ、不思議そうに尋ねた。
「えーと、直前に触った人は……」
遥香は記憶を辿るように、宙へ視線を彷徨わせた。
「……あっ、フェルナンドくんだね、解毒剤を棚から取った」
ハンスが手を打って言う。
(フェルナンドさん……か)
遥香は目を伏せた。
そういえば彼は、抗菌薬盗難事件のときも、鍵の細部を不自然なほど覚えていた。
(まさか……)
遥香が口を開きかけた、そのとき。
「今は、可能性の話だ」
レオニスがそれを遮るように、淡々と告げる。
「断定はしない。だが、解毒剤に最後に触れた人物として、記録には残しておく」
その言葉に、ハンスはかすかに頷いた。
「……分かった。それと、これからは薬棚に鍵をつけるよ」
レオニスと遥香は、医院を後にして街を歩いていた。
やがて人々で賑わう広場に足を踏み入れた瞬間、周囲の視線が一斉に遥香に集まった。
「あっ、あれ聖女様じゃないか?」
「えっ、あの子が?」
ひそひそと交わされる声が、波のように広がっていく。
(す、すごい見られてる……)
遥香はじんわりと手に汗が滲むのを感じた。
すると次の瞬間、人々は次々と跪き、胸に手を当てて遥香に礼を捧げた。
「聖女様」
「ああ、聖女様」
その声はどれも熱を帯び、感動に震えていた。
「い、いや、私は聖女では……」
遥香は慌てて首を振る。
だが、向けられる視線は変わらない。
崇めるような眼差しが、まっすぐに遥香へ注がれていた。
その重さに耐えきれず、遥香は思わず目を伏せる。
(私は、ただの薬剤師なのに)
目の前の熱狂に、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
すると、
「……少し、道を空けてくれ」
そう言い、レオニスが一歩前に出た。
人の波が自然と左右に割れ、気づけば遥香は、彼の背中に守られるような位置に立っていた。
「行くぞ」
レオニスは短くそう言うと、遥香の手を引いた。
「あ、ありがとうございます……」
遥香は小さな声で、その背に礼を伝える。
「にしても、相変わらず聖女人気はすごいな」
レオニスは周囲を見渡しながら、ぼそりと呟いた。
その間も、人々の視線は遥香に注がれ続けていた。
手を合わせ、祈るように跪く群衆。
その眼差しはあたたかく――同時に、どこか息苦しいほどに重かった。
「ふぅ」
遥香は人混みを抜けると、小さく息を吐いた。
だが、その背後では――ひそやかな囁きが交わされていた。
「……ねえ。聖女様の薬って、本当に効いているのかしらね」
小さな、小さな声だった。
だが、確かにその声には、疑念が混じっていた。
その声はまだ、遥香の耳には届かない。
聖女を讃える声の裏で――疑念は、静かに根を張り始めていた。




