14 聖なる者5
遥香は一歩、前に出た。
震える手を、ぎゅっと握り締める。
「炭は、毒を吸い取ります」
はっきりと、迷いなく言い切った。
「体の中に残っている毒を、これ以上巡らせないためです」
「そんな馬鹿な……」
ハンスは呆然と呟く。
「炭なんて、ただの――」
「早く!! 時間がないんです!」
遥香は声を張り上げた。
「今は……それしか、ないんです!」
――自分に言い聞かせるよう、叫んだ。
その必死さに、ハンスは言葉を失った。
数秒の沈黙のあと、彼は歯を食いしばり、深く頷いた。
「……分かった。やろう」
ハンスが慌てて炉の脇へ走り、炭を砕く。
遥香は塩を掴み、器に水を注いだ。塩水は舌が痺れるほどに濃い。
「レオニスさん」
遥香は、そっと声をかけた。
「これ、すっごく苦しいです。でも、飲んでください」
レオニスは荒い呼吸の合間に、微かに笑った。
「……命令か?」
「お願いです」
一瞬だけ、視線が絡む。そしてレオニスは、黙って頷いた。
ティナとクリスが体を支え、遥香が塩水を口元へ運ぶ。
次の瞬間――
「……っ、ぐ……!」
強烈な塩味に、レオニスの喉が引き攣った。体が反射的に前屈みになる。
「もう少し!」
レオニスは激しく咳き込んだ。
周囲から、息を呑む音が漏れる。
間を置かず、遥香は炭を溶いた黒い液を差し出した。
「次、これを!」
「見た目が、最悪だな……」
それでもレオニスは拒まなかった。黒い液を、喉を震わせながら飲み下す。
「これで、動かさないよう安静にさせてください」
遥香は周囲に向けて言った。
しばらく時間が経った。
微かに、手足の震えが止まった。荒れていた呼吸が、ほんの少し、落ち着く。
「副団長?」
クリスが声を潜める。
レオニスは、ゆっくりと胸から手を離した。
「まだ、痺れるが……さっきより、ましだ」
その一言で、張り詰めていた空気が、わずかに緩んだ。
だが――
遥香だけは、険しい顔をしていた。
(まだ、だ)
トリカブトは、時間差で牙を剥く。今は、ただ“進行を遅らせただけ”だ。
床に押さえつけられた男が、歯噛みする。
「そんな、はず……修道士さまが……!」
遥香は、冷たい目で男を見下ろした。
「“修道士さま”が何者かは知りません」
「ですが、毒を使って人を傷つけた人は、もはや神に仕える者ではありません」
その言葉に、男は初めて言葉を失った。
外では、ざわめく群衆の声がしている。
「やっぱり、聖女様だ」
レオニスは、遥香を見て、低く言った。
「……これで、終わったのか?」
遥香は首を横に振り、はっきりと答えた。
「いいえ。まだ、峠です」
*******
月が頂点に上がり、医院の前の行列は消えていた。だが、医院の明かりは消えない。
「レオニスさん」
簡易な診察台の上で眠る彼の手を握り、遥香は祈るように俯く。
手足の震えは治まっている。だが、胸の動きは不規則だった。
突然、身体が小刻みに揺れた。
「ぐっ……!」
胸を押さえ、顔を歪める。皮膚が青白く変わり、唇が紫がかっていく。
「……っ、ハンス先生!!」
遥香は大声でハンスを呼んだ。
「――血圧が下がってる!」
ハンスが慌てて診察する。その手は震えていた。
「脈も不規則だ……危険だ!」
「動かさないで!」
叫びながら、遥香自身の心臓も跳ね上がる。
(まだ、毒が回ってる!)
レオニスの虚ろな瞳が、かすかに遥香を捉える。
「……ぐっ……遥、香……」
その声はかすれ、言葉が途切れる。
「絶対、死なせません!」
遥香は歯を食いしばり、再び塩水を運ぶ。
「塩水を、もう一度! 今度は少しずつ! そして、炭を!」
だが、レオニスの体はもはや反応が鈍く、全力で抑えなければ倒れそうだ。
遥香は、必死に口元へそれを差し出した。
「飲んで! 生きて!」
レオニスの手が、震えながらも遥香の手を掴む。
そして、口に塩水を運ぶと、強い咳とともに体を震わせる。
「ぐっ……」
荒い息が室内に響く。体の痙攣がわずかに収まった。
「炭も!」
遥香は黒い液を口元へ運ぶ。レオニスは顔をしかめたが、必死で飲み下す。
「あとはもう、様子を見るしか……」
遥香は、祈るように、その手を握り続けた。




