10 聖なる者1
「これで、よくなるでしょう」
神官はそう告げると、跪く女性の頭から、そっと手を離した。
「ああ、ありがとうございます! 神官様!」
女性の頬を、涙が伝う。それは差し込む光を受け、きらりと輝いた。
「神官様っ! どうか、私も」
「私にも、ご慈悲を……!」
次々と人々が押し寄せ、震える声で手を差し伸べる。
咳き込む老人、ぐったりとした子どもを抱く母親、腹部を押さえて歩く青年。
皆が、祈るような眼差しで神官を見つめていた。
神官はゆっくりと手を上げ、再びその頭に触れる。
「さあ、祈るのです」
低く響く声に、ざわめきが止んだ。
群衆の視線が一斉に、神官の手元へと集まる。誰もが息を呑み、次の奇跡を待ち望んでいた。
神官は満足そうに口角を上げると、人々の頭に手を置き、祈りの言葉を響かせた。
***
そのころ、領主の館では――。
「咳が、良くなりましたね」
遥香は空になった薬杯を受け取り、微笑んだ。
椅子に腰掛けているのは、ルーンヘルムの領主・ゲオルグである。
以前とは違い、その顔色には血色が戻り、痩せ細っていた体にも、わずかに肉がついていた。
「ああ。夜も、眠れるようになった」
ゲオルグはそう言って、ゆっくりと頷く。
“神の病”の治療を始めて五か月。
ついに領主は、寝台を離れ、椅子に座れるまでに回復していた。
「遥香、お前のおかげだ」
傍らに立つレオニスが、静かに礼を述べる。
「い、いえ。そんな……」
遥香は首を振り、少し照れたように答えた。
「本当に、よくぞここまで」
ゲオルグも目を細めて続ける。
「お前の作った薬と、その手腕には、感謝してもしきれぬ」
そう言って、領主は深く頭を下げた。
「……っ、や、やめてください……!」
遥香も慌てて頭を下げる。
顔を上げた彼女は、ほっとしたように微笑んだ。
(まだ完全ではないけど、本当によかった)
そのとき――窓の外から、歓声のようなざわめきが聞こえてきた。
「……外が騒がしいな」
レオニスが窓辺へ歩み寄る。
城の前には、街の人々が集まり、騒然としていた。
「領主様の“神の病”が治ったらしいぞ!」
「ああ、騎士団の薬師が作った薬が効いたんだと!」
「本当か!? 神官様でも治せなかったのに!」
どうやら、領主回復の噂は、瞬く間に街へ広がったらしい。
「なんでも、その薬を飲むと体が白く光るらしいぞ!」
「いや、黄金に光るって聞いたぞ!」
噂は尾ひれに背びれまでつけ、止まることを知らない。
(……ひ、光る!?)
遥香は、そのあまりの誇張に目を丸くした。
「せ、聖女だ」
誰かが、呟くように言った。
「聖女だ……!」
「聖女様だ!!」
「もう神の病など怖くない!」
興奮は瞬く間に広がっていく。
「ち、違います!」
遥香は後ずさりし、必死に首を振った。
「私は、本当に普通の人間で……!」
手のひらに、じんわりと汗が滲む。
それでも、人々の視線は彼女から離れない。
子どもを抱く母親、体を押さえる老人、足を引きずる青年。
皆が希望を宿した瞳で、遥香を見つめていた。
「聖女様!」
「聖女!」
白い花を掲げ、人々が声を張り上げる。
「ちょ、ちょっと待ってください……!」
遥香は混乱し、言葉を失った。
しかし、熱狂の中で、その声が届くことはなかった。
「聖女様!」
「どうか、我らをお救いください!」
歓声と花吹雪の中、遥香は小さく息を吐いた。
(ああ、私ただの病院薬剤師なのに。なんで、こんなことに……)
窓辺でその光景を見つめていたレオニスが、低く呟く。
「……これは、まずいな」
名もなき薬師が、知らぬ間に街の中心人物になりつつある。善意の熱狂は、ときに刃よりも鋭い。
(このままでは、彼女に危険が及ぶ)
城の窓から見下ろす、笑顔とざわめき。
その中心に立たされた遥香は、まだ知らなかった。
――善意が、人を裁く刃へと変わる瞬間を。




