8 祈りの薬8
遥香は先程見た光景が、頭から離れなかった。
二十三本もある鍵の形を、一つ一つ正確に覚えていられるものだろうか。
(普通じゃ、ないよね)
ゲオルグの居室の扉の前に立ち止まり、遥香は小さく首を振る。
考えすぎだ、と自分に言い聞かせても、胸の奥に残るざらつきは消えなかった。
――その時。
「遥香」
背後から声をかけられ、肩が跳ねた。振り向くと、そこにいたのはギルバートだった。
「今から領主様のところか?」
「ああ、ギルバートさん」
その顔を見た瞬間、遥香は無意識に息を吐いていた。
「そうです、薬の時間で」
そう言い、扉に手をかけたまま、遥香は一瞬ためらった。胸の奥に残るざらつきが、まだ消えきっていない。
「あの、ギルバートさん」
「ん?」
振り返ると、ギルバートは足を止めてこちらを見ていた。
「フェルナンドさんって……」
言葉を選びながら、続ける。
「どんな方なんですか?」
ギルバートは、少し意外そうに眉を上げた。
「フェルナンド?」
「あ、いえ、さっき廊下で会って」
遥香は視線を落とす。
「ああ」
ギルバートは、どこか納得したように頷いた。
「あいつ、妙に几帳面だからな」
「几帳面……」
「フェルナンドがどうかしたのか?」
「あ、いえ。ありがとうございます」
遥香は、そう言うとギルバートに軽く会釈して、ドアノブを回した。
ゲオルグの部屋には、レオニスの姿もあった。
「今日の分のお薬、お持ちしました」
薬杯を少し持ち上げ、言う。
寝台に横たわるゲオルグは、浅く、しかし規則正しい呼吸を繰り返していた。
「ああ、すまないな」
レオニスは遥香を見ると、静かに礼を言った。
「じゃあ、今日もいつも通りに……」
そう言うと、遥香は匙を慎重にゲオルグの口元へ運んだ。
ゲオルグの胸は、ゆっくりと上下している。
その呼吸は苦しげではない――だが、決して楽そうでもない。
「あの、さっき、薬剤室の前で……」
遥香は先程見聞きしたことをレオニスに話した。
レオニスは、遥香の話を遮らずに聞いていた。
「なるほど」
一通り聞き終えると、レオニスは短く息を吐いた。表情は崩れていないが、視線がわずかに伏せられた。
そして、遥香には、もう一つどうしても引っかかることがあった。
(薬を、どうするつもりなんだろ)
黒髪の女の手の者の仕業ならば、盗んだ薬は悪用されるはずだった。
遥香を追い詰めるために。
なのに、盗まれた抗菌薬は表に出ていない。
静かなままだ。
(もしかして)
遥香は、ひとつの可能性に行き当たった。
「もしかして、ですが……」
レオニスが視線を向ける。
「抗菌薬を盗んだ犯人には、“薬そのものを必要とする理由”があるのかもしれません」
遥香は、自分なりの仮説をレオニスに語った。
話を聞き終えたレオニスは、短く頷いた。
「訓練所に騎士を集める」
*******
中庭の訓練所には、城の騎士たちが一堂に集められていた。“実践訓練”という名目に、騎士たちは闘志を漲らせている。
遥香は、訓練所を見下ろす回廊の上に立っていた。隣にはレオニス、その隣にクリスが並ぶ。
騎士達はレオニスが号令を出すのを静かに待っている。レオニスが右手を上げようとした、その時。
「ああっ、大変っ! 領主様の今日の薬を忘れて来ました!」
遥香が突然大きな声でそう叫んだ。
騎士たちの視線が一斉に集まる。
「まぁ、今日くらい、いいんじゃないですか?」
クリスが、取りなすように言う。
「いいえ!!」
遥香は勢いよく首を振った。
「あの薬は一度でも飲み忘れたら、命が危ないんですよ!!」
大げさなくらい真剣な口調で言い放つと、慌てた様子で踵を返す。
そして、そのまま訓練所を後にした。
城の廊下に出た瞬間、遥香は大きく息を吐いた。
(これで、食いついてくれれば……)
もし仮説が正しければ――犯人は、今晩、必ず医務室に現れる。
*****
日が落ち、月が天頂に昇る頃。
遥香とレオニスは、医務室脇の階段に身を潜めていた。石壁は夜気を含み、ひんやりと冷たい。
医務室を挟んだ反対側の階段には、クリスが控えている。
「来ると思うか?」
レオニスが、ほとんど息だけでそう尋ねた。
「来ます!」
遥香は迷いなく答えた。
「薬を盗んだ犯人の目的が“薬そのもの"なら、来ない筈がありません。」
遥香は昼間、訓練所で大っぴらに嘘の情報を流した。
盗まれた抗菌薬はちょうどなくなる頃だ。
もし、犯人が薬を必要としているならば、必ず現れるだろう。
遥香は息を潜めて、廊下の様子を伺う。
すぐ後ろにはレオニスが控えていた。
気配だけで分かるほど、すぐ背後に立っている。
(近い!)
緊張でじわりと汗が浮かぶ。
遥香は距離を忘れるように、首を左右に振った。
……その時。
カツン。
医務室の方から、控えめな足音がした。
瞬間、レオニスの手が遥香の腹に回り、音もなく引き寄せる。背中に、彼の胸が触れた。
「……静かに」
囁くような声が、すぐ耳元に落ちた。
(ち、近すぎるっ!)
低く抑えられたその声に、遥香の肩がびくりと揺れる。
(叫ばなかった私、えらい……!!)
両手で口を覆い、必死に耐える。
カツン、……コツ。
足音は確実に近づいてくる。
医務室の前で、一瞬、ためらうように止まった気配がした。
遥香はごくり、と唾を飲む。
ーーカチャリ。
鍵に手をかける小さな音が廊下に響いた。
レオニスがゆっくりと剣に手をかけるのが見えた。
次の瞬間
「動くな」
低く、しかしよく通る声が廊下に響いた。
剣を手にしたレオニスが一歩前へ出る。
びくり、と人影が硬直する。
月明かりに照らされて、フードを被った男の姿が浮かび上がった。鍵から手を離し、ゆっくりと振り返る。
「副、団長……」
かすれた声。
それは――
遥香にも、はっきりと見覚えのある顔だった。




