5 祈りの薬5
「……はぁっ……はぁっ」
遥香は、城の長い廊下を走っていた。胸元でガラス瓶がカチャ、と小さく鳴る。
(間に合って!)
「――失礼します!」
言葉と同時に、扉を叩き開けた。――バンッ。
寝台の上で、ゲオルグは浅く、荒い呼吸を繰り返していた。
「遥香……」
傍らにいたレオニスが、彼女を見る。
「できました! まだ完全じゃないけど、使えます!」
遥香は、握り締めたガラス瓶を掲げた。
その中の透明な液体に、レオニスの視線が吸い寄せられる。
一瞬の沈黙の後、レオニスは遥香の目をまっすぐに見据えた。そこに、迷いはなかった。
「頼む」
遥香は、強く頷いた。
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ゲオルグの呼吸は、さらに浅くなっていた。
胸が上下するたび、喉の奥で痰が絡む音がする。
「父上」
レオニスは寝台の脇に膝をつき、ゲオルグの肩をそっと支えた。
遥香は、ガラス瓶の栓を外し、それをギュッと握った。
(もし、これで……治らなかったら)
嫌な考えが頭をよぎったが、首を振り慎重に匙へ液体を注ぐ。
「少しずつ、いきます」
遥香は静かに言った。
レオニスが、ゲオルグの上体を起こす。
「……ぐ……ぅ……ぅ」
それだけで、ゲオルグの口から苦しげな声が漏れた。
焦点の合わない視線が、しばらく宙を彷徨い―― やがて、遥香の顔で止まる。
「……ゔ……っ」
一瞬、ゲオルグの唇がわずかに動いた。
それが笑みだったのか、ただの痙攣だったのかは分からない。
遥香は匙を、そっと唇に当てた。
「ゆっくり、飲んでください」
液体が、少しだけ口内に流れ込む。 ごく、と喉が鳴った。
(……よし)
二口目。
三口目。
途中で、激しい咳が起きる。
「っ……ごほっ……!」
「……っ! 大丈夫、大丈夫です」
遥香は即座に匙を引き、その背をさする。
「少しずつ。もう一度」
咳が落ち着くのを待ち、再び匙を口に運ぶ。
最後の一口が、喉を通ったのを確認してから、 遥香はようやく息を吐いた。
「終わりました」
その言葉と同時に、 部屋の空気が、少し解けた。
だが、すぐに何かが変わるわけではない。 それは、遥香が一番よく知っていた。
「これを、あと半年間続けなければいけません」
遥香は静かに告げた。結核の治療は長期戦だ。
「半年、か」
レオニスは、父の寝顔から目を離さずに言った。
ゲオルグは、ゆっくりと息を吸い、そして――長く吐く。それだけだった。
劇的な回復も、奇跡も起こらない。
だが、この世界で初めて、抗菌薬が、人の命に使われた瞬間だった。
(どうか……)
遥香は、祈るように、ゲオルグの寝顔を見つめ続けていた。
*******
「わぁ」
思わず声が漏れた。
遥香は、城の薬剤室に立ち、そこを見渡していた。
「好きに使うといい」
レオニスに促され、扉を開けた先にあったのは、驚くほど簡素で、それでいて整った空間だった。
白いシーツが張られたベッドが一台。棚には乳鉢や乳棒、薬瓶が几帳面に並び、机の上には数冊の薬学書が積まれている。
「すごい! 全部揃ってますね」
思わず感嘆の声が漏れる。
自分が使っていた小屋の道具とは、まるで別世界だった。
「普段は使っていない。好きにしていい」
形だけは整えられていたが、ここが実際に使われてきた形跡は薄い。
遥香は騎士団の薬師として、この部屋を与えられたのだ。
(ああ。これで、もう)
遥香は、銀色の乳棒を両手で持ち上げ、震える。
(あの木の棒とは、おさらばだ!)
小屋にある木の棒では、薬を擦り潰すのにとても時間がかかるのだ。
しまいには、木の棒が折れるか、遥香の手にマメが出来るのかのどちらかだった。
「半年間、よろしく頼む」
薬棚の前で、まるで銀色の棒を崇めるかのように掲げている遥香を見て、レオニスは言った。
「はい。ただ、あの薬は、絶対に毎日飲まないといけません」
「飲まないと、どうなる?」
「耐性菌が出来て、薬が効かなくなります」
遥香は、薬棚に置いた瓶を見つめながら答えた。
レオニスは、鍵を握る手にわずかに力を込めた。
「半年間、必ず飲ませ続ける、か」
その声に、遥香は小さく頷いた。
レオニスはしばし黙った後、医務室の鍵を差し出した。
「いつでも使ってくれ」
「ありがとうございます」
遥香は鍵を受け取ると、そっと鞄にしまった。
******
ーードサッ
その夜。
城の上階から、何かが落ちたような音を聞いた者がいたという。
「今の、聞いた?」
「え? 風じゃないの?」
「いや、人の声みたいだった」
誰かが、そう囁いた。
******
翌朝。
(なんだろ?)
登城した遥香は、城門前に人混みが出来ていることに気づいた。
そっと近寄り、人垣の間から顔を出す。
そこには、頭から血を流して伏せた女がいた。
「……っ!」
遥香は息を呑んだ。
それは、昨日コップを割った、あの侍女だった。
後ろから、低い声が聞こえた。
「夜半に、城の屋上から落ちたらしい」
その声にバッと振り向く。レオニスだった。
「殺されたのか、あるいは自死か」
「自死」
遥香はその言葉を、ぽつりと繰り返す。昨日侍女が怯えた様子だったことを思い出す。
「何かを知っていた可能性は、否定できない」
レオニスは城の屋上を見上げて、そう言った。
その時。
城の屋上を検分していた騎士が、小さく呟いた。
「……なんだ、これ?」
「どうした?」
「これだよ」
騎士は、小さな金属の欠片を見せた。
風が吹き抜け、遥香の黒髪が、音もなく揺れた。




