5 罪深き浣腸5
「これは……妻からもらったものだ」
男爵の言葉が放たれた瞬間、広間の空気は凍りついた。
誰も、何も言わない。
ただ、耳鳴りのような――キーンという甲高い音だけが、やけに大きく響いていた。
やがて、男爵は重たい沈黙を破るように、ゆっくりと口を開いた。
「……初めて、だったんだ」
俯いたまま、絞り出すような声。その一言に、誰もが息を詰める。
「シャーロットが、私に“贈り物”をくれたのは」
男爵は、かつて商売で大成功を収めた成金だった。 金の力で男爵位を買い、社交界へと足を踏み入れたのだ。
「シャーロットは、ただただ美しくて、眩しかった。
私には、高嶺の花で……」
自嘲気味に、ふっと笑う。
「一目惚れだった。私は……金で、彼女を妻にした」
シャーロットは、没落寸前の貧しい伯爵家の娘だった。
結納金の額を見た両親は、迷うことなく娘を差し出した。
それは、家のために――金で“買われるように”嫁いだ結婚だった。
「……っ」
男爵夫人シャーロットは顔を伏せ、言葉もなく、ただ震えている。
男爵の視線が、ゆっくりと執事へ向けられた。
「知っていたさ」
ぽつり、と呟くように続ける。
「二人が、恋仲であることを……」
使用人たちが、息を呑む音が広間に広がった。
執事アルフレッドは唇を噛みしめ、何も言わなかった。
男爵は拳を強く握りしめ、目を閉じる。
「だが、認めたくなかった。自分は愛されていないと、思い知るのが怖かった……」
だから――
男爵にとって、あの“贈り物”は、希望だった。
「身体に良い浣腸液だと瓶を渡されて。私のことも、少しは想ってくれているのだと……」
自虐するような笑みが、彼の唇に浮かぶ。
遥香は、胸が締め付けられるような痛みを覚えた。
「だが、違ったんだな……」
小さな呟きは、虚しく空気に溶けていく。
「……ごめ……なさ……い……」
男爵夫人は力なく崩れ落ち、そのまま泣き崩れた。静まり返った広間に、啜り泣く声だけが響いた。
「連れて行け」
レオニスの低い命令と共に、夫人と執事は騎士たちに連れられ、広間を後にした。
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残された最大の謎。
それは、浣腸瓶の入手経路だった。
「占い師に、貰ったんです」
領主の居城、取調室で男爵夫人はぽつりと言った。
豪奢なドレスではなく、白い簡素なワンピースに身を包んだ夫人は、憔悴しきっている。
「占い師?」
机に腰掛けたレオニスが問い返す。
夫人は小さく頷いた。
「友人から、腕の良い占い師を紹介されて。その方が、あの瓶を……」
顔を覆い、声を震わせる。
「私、私はつい……アルフレッドとのことを話してしまったのです」
すると、占い師は囁いたという。
――旦那が、邪魔じゃないか? と。
後継者の息子もいる。男爵が死んでも、財産の心配はないだろう、と。
不倫が露見する恐怖に晒され続けていた夫人は、その甘い言葉に騙され、毒殺を選んでしまったのだ。
「今は、後悔しています……」
夫人はそう言うと、再び静かに泣いた。
「占い師の容貌は?」
レオニスは夫人に尋ねる。
少し間が空いて、夫人は力無く首を左右に振った。
「ごめんなさい。黒いフードを被っていたから、顔は見ていないんです。でも、長い黒髪だったわ」
「占い師、か」
そう言うと、レオニスは目を伏せた。何やら考え事をしているようだ。
(それにしても)
偶然、遥香がアリシアの店であの浣腸瓶を見ていたから、男爵は助かった。
(でも、もし、あの瓶が何か気づかなければ)
男爵はそのまま亡くなり、犯人の追求は難しかっただろう。
そうなれば、あの日偶然男爵邸を訪れていた、ハンスと遥香も容疑者になっていたかもしれない。
そう考え、遥香は安堵の息を吐いた。
と、その時。
(あれ?)
違和感が、遥香の頭に浮かんだ。
(そういえば、どうして普段診察も受けていないハンス先生を、わざわざ呼んだの?)
ぞわっと鳥肌が立った。
「何故、ハンス医師を呼んだ?」
レオニスも同じ結論に辿り着いたようだ。
「貴族を専門とした高位な医師なら、他にいるはずだ」
「占い師に腕がいいから、診てもらうよう言われたんです」
遥香は息を呑んだ。
(もしかして、狙いは……)




