2 罪深き浣腸2
男爵家に到着すると、玄関には男爵夫人が待っていた。
「ああ、お待ちしていました」
夫人は玄関を行ったり来たりしていたが、ハンスたちを見つけると、待ち侘びていたかのように小走りで駆けよった。
「男爵家の医者に見せても、ちっとも良くならないので、お呼びしたんです」
言うと同時に、足早に屋敷の奥へ案内する。
案内された寝室には、ベッドに腰掛けた小さな男の子がいた。年の頃は5歳ほどだろうか。
その前には跪いて子供の手を取っている医者がいた。
脈でも測っているのかと思ったが、その手には何やら黒いものが蠢いていた。
(……なに、あれ?)
遥香は目を凝らしてそれを見る。
ヒルだった。
男の子の白い腕をもぞもぞと這い回っている。
赤い液体が流れた。だが、お構いなしにそれは少年に吸い付いている。
「……怖いよぅ」
子供の小さく漏れた声は震えていて、治療に納得している様子など微塵もない。
「アーサー、耐えなさい」
男爵夫人は、幼い息子に我慢するよう言い聞かせている。
「あ、あの、何をして……」
遥香がそう言いかけた時、隣にいたハンスが大きなため息をついた。
「また瀉血なんかして……」
ハンスはそう言い、大股で歩くと医者の腕を掴んだ。
「やめなさい。嫌がっているだろう! それに、こんなことをやっても意味がない!」
腕を掴まれた医者は、衝撃でヒルをポトリと床に落とした。
「こんにちは。怪我をしたんだって?」
ハンスが穏やかに男の子ーアーサーに声をかけると、怯えたようにうなずいた。
「うん、僕、ちょっと転んだだけなのに、足がすごく痛くて」
布団をめくると、右足のすねが赤く腫れていた。
(転けただけで、ここまで?)
遥香は驚き、アーサーの脛を見る。
ハンスが触診を始める。アーサーは少し触れられただけで、悲鳴に近い声を上げた。
「うーん、骨でも折れているのかな?」
ハンスは眉を寄せている。
(骨折? いや、違う)
遥香は、アーサーの体つきを観察した。5歳にしてはその歳の子供より身長が低い。
足は細く、日に当たったことがないかのように真っ白な肌だった。
そして、膝が少し内側に曲がった“O脚”気味。
(これ、もしかして……)
「あの、息子さんは外で遊ぶことは、普段はあまり、ありませんか?」
遥香が問うと、男爵夫人はため息をついて言う。
「ええ、この子は病弱だから外には出られないのです。男爵家の跡取りなのに、こんな調子では……」
夫人はそう言うと、息子を一瞥してまた大きな溜息をついた。
「恐らく、それが原因です」
「えっ?」
「息子さんは、多分ビタミンDが不足する"くる病"という病気です」
「び、びたみ……?」
男爵夫人は首を傾げて、ポカンと遥香を見ている。
「ビタミンDは、太陽を浴びることで作られるものです」
「太陽!? そんな、どうしたら……っ!私は良かれと思って」
男爵夫人はオロオロと、取り乱している。
「大丈夫、まだ間に合います。栄養をしっかり摂って、外へ出るようにしたら、徐々に良くなるーーー」
遥香がそう言いかけた
その時。
「きゃあああ!誰かぁぁぁ!」
屋敷の奥から悲鳴が上がった。
遥香達の居る部屋に青ざめた侍女が転がり込むようにして入って来た。
「だ、旦那様が……っ!旦那様が倒れられました!」
侍女の言葉に男爵夫人はサッと顔色を変え、踵を返す。遥香たちも慌てて後を追った。
男爵の書斎は騒然としていた。
床には、転がった大柄な男爵の姿がある。
そして、その隣には先程の医者が呆然と立ち尽くしていた。
手には、銀細工の施された“浣腸器”が握られている。
男爵は腹を押さえて倒れており、ぴくりとも動かない。
机の上には豪奢な空の瓶が置かれていた。
(あれはっ!)
遥香はその瓶に見覚えがあった。
「ハンス先生、ちょっと……」
遥香はハンスに耳打ちをする。
ハンスは一瞬驚いたように遥香の顔を見つめたが、微かに頷いた。
「ああ!なんてこと!旦那様っ! 早く、その医者を捕えなさい!」
夫人の命令にフットマン達は一斉に医者に飛びかかる。
だが、我に返った医者はビクッと肩を揺らすと身を翻し、フットマンたちを交わした。
「違う! 私は何もしてないっ!」
医者は両手を前に出して、首を振りながらそう言った。
フットマン達は、医者を囲むようにじりじりと近付く。
追い詰められた医者は、窓の方に後退する。
もう逃げ場はない。
医者は覚悟を決めたように後ろを向き、窓に突進した。
ーーーガシャーンッ
そして、そのまま逃げて行った。
廊下でバタバタと足音が響いた。
「これは……っ! 何があったのですか!?」
息を切らして、燕尾服姿の執事が入って来た。
灰色の髪に長身、精悍な顔立ちの青年だ。
「ああ、アルフレッド! 旦那様が!」
夫人は目に涙を浮かべ、倒れている男爵を指差す。
すると、男爵の側にしゃがみ、脈をとっていたハンスが静かに告げた。
「これは、残念ですが、お亡くなりです」
その言葉に、男爵夫人はふらりと後ろへ倒れ込みそうになる。
「奥様っ! なんてことだ……」
執事は男爵夫人を支えると、目をギュッとつぶった。
「あの、騎士団を呼んだ方がいいのでは? 早く逃げた人を追いかけないと!」
遥香の声に、フットマン達が弾かれたように駆け出していった。
事情を聞いた騎士団の動きは、速かった。
ーー30分後、縄で縛られた医者が連行されて戻ってきた。
「ち、違う! 私は何もしていない!」
医者は泣き叫んでいる。
「では、なぜ逃げた?」
医者を後ろ手に拘束したレオニスが、冷静に問い詰める。
「その、疑われて、怖くなって……」
「男爵に何をした」
「何も。ただ、いつものように浣腸をしていたら、旦那様が急に苦しみ始めて」
医者は震えながら言う。
「浣腸液は何を使った?」
男爵の隣にしゃがんだままのハンスが尋ねる。
「あの瓶を……旦那様が持って来られました。嬉しそうに、"これを使え"、と」
医者は震える手で、机の上の瓶を指差す。
その繊細な銀細工の瓶は、蝋燭の光を反射して不気味に輝いていた。




