35 予定外の拉致3
ーーザッ
頬を冷たい手が包んだ。
「――遥香」
その声に、胸が強く打たれた。
(……え?)
一瞬、息が止まる。
それでも、その声だけははっきり聞こえた。
混乱のまま固まっていると、布越しに触れていた手が、そっと目隠しの布をほどき始めた。
布が外れると、暗がりの中に浮かび上がったのは、
レオニスだった。
月明かりの差し込む隙間から、彼の栗色の髪が淡く光っている。
息を切らしながらも、その瞳は、静かに燃えていた。
「……レオ、ニスさん……?」
安堵が、堰を切ったように溢れ出した。
声を出した途端、喉が震え、言葉は途切れ途切れになる。力が抜け、涙が一気に込み上げた。
レオニスは、赤く腫れ上がった遥香の手首に視線を落とし、表情を険しくする。
そこにあったのは、いつもの涼しげな顔ではなく、怒りを抑え込んだ表情だった。
「傷は後で手当てする。まずは、ここから出る」
彼は着ていた外套を脱ぎ遥香に掛けた。
支えられながら外へ出ると、そこには二人の男が倒れていた。
手を後ろで縛られ、土の上に重なるように転がっている。体格の良い男だった。
襲われかけた恐怖を思い出し、思わず身震いする。
「もう大丈夫だ」
レオニスは遥香の背中に手を添える。
少し離れた川のほとりに馬が繋がれてあった。
「乗れるか?」
押し上げられるように馬に乗せられ、レオニスもすぐ後ろにひらりと跨る。
「あの人たちは?」
遥香が、古い教会の前に倒れた男たちを振り返る。
「自警団にこの場所を知らせている。もうすぐ到着するだろう。」
レオニスはそう言うと、手綱を引いた。
そこは、森と川に挟まれた、人気のない古い教会だった。
こんな場所に連れて来られていたのだ。
「どうして、ここが分かったんですか?」
馬の揺れに身を任せながら、遥香は小さく尋ねた。
「怪しい女から、聞き出した」
「怪しい……女?」
「屋敷の前を何度も往復していた。問い詰めたら、すぐに吐いた」
(犯人の、仲間?)
遥香は首を傾げた。
鬱蒼とした森を抜けると、遠くに街の灯りが見えてきた。
「こんな、遠くまで……」
遥香は、ぼんやりと呟いた。
「時間を稼ぎたかったのだろう」
その言葉で、男たちの会話が蘇る。
――王家に嫁げないように傷物にする。
ぞっとした。
ほんの少しでも遅れていたら――
指先が、冷えた。
「着いたぞ」
気付けば、馬は街に入り、一軒の屋敷の前で止まっていた。公爵邸程ではないが、立派な造りの屋敷だった。
「あっ、はい」
考え込んでいた遥香は、慌てて周囲を見回す。
レオニスは遥香の腰に手を回すと、ヒョイと馬から降ろした。
一気に血が顔に集まり、遥香は思わず俯く。
玄関の扉が開いた。
「お帰りなさいませっ!」
燕尾服姿の白髪の執事が、慌てた様子で駆け寄ってくる。
「申し訳ありません!」
執事は二人に近寄るなり、レオニスに向かって勢いよく頭を下げた。
「何があった」
深々と頭を下げる執事に、レオニスは落ち着いた声で尋ねた。
「捕らえておいた女が……」
執事が小声で耳打ちすると、レオニスの顔色が一変した。
案内された部屋には、四人の騎士が立っていた。その中心に誰かが倒れているのが見えた。
(女の人……?)
遥香は近付こうと一歩踏み出す。
「見るな」
レオニスに制されるが、遥香はその手をそっと払い、前へ進んだ。
騎士達の隙間から赤茶色の髪に、紺色のロングドレスが見えた。
嫌な予感がする。目が離せない。
顔が見える位置まで来て、遥香は息を飲んだ。
「……え、サラさ……ん?」
そこに倒れていたのは、イザベル付きの侍女、サラだった。
足が、止まった。
「知り合いか?」
レオニスの問いに、遥香はゆっくり頷く。
「公爵家の、イザベル様付きの侍女です」
その言葉に、レオニスの瞳が鋭く光った。
「……っ、なんで、こんな……」
サラの顔は苦悶に歪み、首元には掻きむしった跡があった。
見開かれた瞳は、何も映していない。口元には、乾きかけた白い泡が残っている。
遥香は、サラの変わり果てた姿に足から力が抜け、床に座り込んだ。
「申し訳ありません」
騎士が敬礼し、報告する。
「副団長が出掛けられた後、急にこの女が何かを口に含み……止めたのですが、間に合いませんでした」
レオニスは、遥香の救出に向かう直前、屋敷前をさまようサラを見つけていた。
尋問し、遥香の居場所を吐かせ、この部屋に拘束していたのだ。
「これ……」
遥香はサラの近くに落ちている、白い紙に気づいた。
その中には褐色の根のような物と、それを潰したであろう粉が残っていた。
「触れない方がいい」
レオニスは、紙に手を伸ばす遥香の手首を掴んだ。
「……これ、トリカブト」
根に含まれる毒は、心臓を狂わせる。
「ここへ来た時点で、こうするつもりだったのだろう」
レオニスは目を閉じ、静かに言った。
サラは、間違いなく犯人の一味だった。
イザベルの側で、ずっと。
「どうして……」
遥香は、涙を流しながら呟く。
「……逃げれば、良かったのに……」
サラの足には、ガラス片で切った傷が残っている。手当もせず、ここまで来たのだ。
――命を賭して。
(どうして……サラさん……)
イザベルを誇らしげに語り、屈託なく笑っていたサラの姿が脳裏に浮かぶ。
手首の痛みなど、もう感じなかった。
嗚咽が、止まらない。
遥香は、サラの冷えた指に触れた。
固く握られていたはずの手は、最期の瞬間、何かを掴もうとしたように開いている。
まるでーー何かを託すように。




