34 予定外の拉致2
公爵邸では、異変に気付いた使用人たちが慌てふためいていた。
「た、大変! お嬢様のお部屋が……!」
侍女の悲鳴と、走り回る足音が廊下にこだました。
次の瞬間、書斎の扉が勢いよく開き、公爵が飛び出してきた。
「何事だ!」
その一声で、使用人たちは一斉に頭を下げる。
「お、お嬢様のお部屋の窓が壊され……お姿が見えません」
震える声での報告に、公爵の表情が凍りついた。
「なんだとっ! すぐに兵を呼び、門を封鎖しろ!」
号令とともに、邸内は一気に騒然となった。
衛兵たちは剣を手に、足跡や馬車の痕跡を追い始めた。
「イザベルを、なんとしてでも探し出せ!!」
公爵は片手を高く掲げ、邸内に響き渡る声で指揮を執る。
「はっ!」
衛兵たちが剣を手に散開しようとした――その時。
「……何事ですか?」
不意に、廊下の奥から澄んだ声がした。
振り返った全員の視線の先に立っていたのは――
イザベルだった。
公爵は片手を上げたままイザベルを見て固まる。
まるで、時が止まったようだ。
「……イザベル? これは、どういう事だ?」
衛兵も使用人も目を丸くして一様にイザベルを見ている。
「……あの?」
耐えきれず、イザベルが声を出す。
ようやく我に返った公爵は、ゆっくりと手を下ろし、安堵の表情を浮かべた。
「おお、娘よ! 無事で良かった」
その一言で、張りつめていた空気がほどけ、使用人たちの顔にも安堵が広がる。
「何か、あったのですか?」
イザベルが不安そうに問うと、公爵は彼女の肩に手を置いた。
「お前の部屋に賊が入った。姿が見えなかったから、攫われたのかと思ったのだ」
「……え?」
イザベルの顔色が変わる。
「私の部屋に? サラと、遥香さんは?」
その名が出た瞬間、再びざわめきが起こった。
「そういえば……見てないな」
「誰か、見たか?」
使用人たちは顔を見合わせるが、誰一人として姿を見た者はいない。
「……くっ」
公爵の口元が、わずかに吊り上がる。
「間抜けな誘拐犯だ。おそらく、イザベルと間違えてあの薬師の女を連れて行ったのだろう」
愉快でたまらない、とでも言うような笑い声。
「そ、そんな!」
イザベルは思わず父の胸元に縋りつく。
「お父様、早く遥香さんを助けに……!」
「放っておけ」
穏やかな声で、だがはっきりと言い切る。
「お前は無事だ。それで十分だ。心配することはない」
優しい声でイザベルにそう言い頭を撫でると、公爵は笑い声を上げながら、書斎へ戻って行った。
「そんな……どうしたら……」
残されたイザベルは、力が抜けたように廊下に座り込んだ。
*******
その頃。
社交界から戻ったレオニスは、王都の自宅書斎で書類に目を通していた。
「――失礼いたします」
ノックとともに、老執事が扉を開ける。
「お客様がお見えです」
「こんな時間にか?」
レオニスは書類から目を上げると、訝しげに眉を顰める。
「なんでも、公爵家ご令嬢からの伝令だとか……」
執事のその言葉を聞いた瞬間、レオニスは立ち上がる。
「すぐに通せ」
部屋に通された伝令は深く一礼すると、言った。
「公爵家ご令嬢、イザベル様からご伝言です。
イザベル様と間違われ、遥香様が何者かに攫われた、と」
言葉の途中で、椅子が倒れる音がした。
気付けば、レオニスは剣を掴んでいた。
その目に、迷いはなかった。
*****
冷たい石の床。
遥香は、そこに転がされていた。
手首に食い込む縄を解こうと身をよじるが、動かすたびに鋭い痛みが走る。
(痛……っ)
目隠しの布越しに、わずかな光だけが差し込む。
(ここ、どこ?)
耳を澄ますと、遠くで水が流れる音が聞こえた。
(……川?)
ーーコツ、コツ、コツ
足音が響く。
そして男たちが何やら話している低い声が聞こえてきた。
「王家に嫁げないようにすればいい」
「なぁに、顔に傷でも残せば十分だろう」
「上の命令だ。証拠は残すなよ」
男達の下卑た笑い声が響く。
耳に入った男達の言葉が、頭の中をぐるぐる回る。
(この人たち、イザベル様を狙って……)
ーーコツ、コツ、コツ
石床に響く足音が、近づいてくる。
遥香の鼓動は痛いほど跳ね上がった。
(いや、来ないで! やだ……!)
必死にもがくが、縄はびくともしない。
「暴れるなよ。命までは取りはしないさ」
「静かにしてりゃ、すぐ終わるよ。お嬢様」
ぞっとするほど軽くて、無慈悲な声だった。
遥香は必死で後ずさる。
だが身体は縛られていて自由にならず、背中はすぐ壁にぶつかった。逃げ道がない。
男の手が、遥香の肩にかかった。
(もう、ダメだ……っ!)
ーーその時。
ガラン…ッ
外から物音がした。
「なんだ?」
男は遥香に触れようとしていた手を引っ込める。
「見つかったか?」
一瞬、空気が張りつめる。
男たちは視線を交わし、ひとりがゆっくりと立ち上がった。
もうひとりが遥香の肩を乱暴に押して床に伏せさせた。
「動くなよ。すぐ戻る」
男たちの足音が遠ざかっていく。
扉の外でくぐもった声がする。
(どうしよう、まさか仲間が増えたんじゃ……)
最悪な事態ばかりが、脳裏に思い浮かんでくる。
(今のうちに、逃げなきゃ!)
遥香は息を詰めたまま、ほんのわずかでも身体を動かせないか試した。
だが、縄はきつく縛られており、びくともしない。
(早く、早く、お願いっ!)
焦りばかりが募る。
だが、手は汗でぬるぬる滑るだけで、ちっとも言うことを聞かない。
ガタンッ!ーーダンッ
外で一際大きな音がした。
遥香の肩が震える。扉が破られたようだ。
遥香はギュッと目を瞑った。
ーーコツ、コツ、
何者かが、早足でこちらに近づいて来る。
冷たい感触が、髪に触れた。
心臓が跳ね上がった。
(落ち着け……っ!)
遥香は、自分に言い聞かせる。
(まだ、生きてる。呼吸もできてる……考えろ)
恐怖に呑まれるな。
——考えろ。まだ、終わっていない。




