33 予定外の拉致1
イザベルの腕は、紫根の軟膏と包帯で丁寧に保護したことで、ぱっと見では分からないほど回復していた――はずだった。
だが。
社交界が終わり手袋を脱ぐと、また赤く腫れ上がり水疱があちらこちらに出来ていた。
「……なんで」
遥香はぽつりと呟く。
そして、脱ぎ捨てられた青緑色の手袋を掴み上げ、じっと見つめた。
「もしかして、これのせい……?」
他の部位にも症状がないか確認する。
すると――背中の一部が、不自然に赤くなっているのが目に入った。
(背中?)
このドレスは背中が大きく開いたデザインだ。
下着は背中にかからない仕様のものを着用している。
ーーつまり。
肌がドレスに直接触れていた部分だけが、赤くなっていた。
遥香の脳裏で、点と点が繋がった。
「手袋、ドレス……」
遥香は記憶を必死に手繰り寄せる。
そして、思い当たった瞬間。
背筋を、氷の指でなぞられたような寒気が走った。
中世ヨーロッパで一時大流行した染料。
華やかな青緑色で人々を魅了した――パリスグリーン。
だが、その正体は。
(……ヒ素)
その名を思い出した瞬間、血の気が引いた。
「えっ、これ?」
バッと振り返り、青緑色のドレスを見つめた途端、遥香の心臓が大きく跳ねた。
そこにある色は、まさに――あの毒を思わせる、鮮やかすぎる緑だった。
「やっぱり、そうだ」
遥香の声は震えていた。
パリスグリーン――かつての毒色。
当時、多くの人が原因も知らぬまま倒れ、命を落とした。
(イザベル様も、もしこのまま着続けていたら……)
イザベルの美しい肌に浮かぶ赤黒い水疱を見る。
(早く、やめさせないと!)
ふと、視線を巡らせて、遥香は凍りついた。
壁紙も。絨毯も。すべて――同じ、青緑色だった。
閉じ込められている。この色に。
この青緑色を気に入った公爵が、王都のイザベルの部屋をこの色で統一したと聞いている。
(領地にいた頃は、元気だった……)
サラの言葉を思い出す。
それが意味するものとは――
ぞわり、と全身の毛が逆立った。
「はやく、早く……っ! 部屋を出てください!!」
遥香はイザベルの背中を押し、部屋から出そうとする。
「えっ、えっ、なんでですか?」
サラが驚き、イザベルを押す遥香を止める。
「この色は、毒です……!」
その言葉に、イザベルとサラは息を呑み、目を見開いた。
******
その夜。
遥香の提案でイザベルは客間で休むことになった。
(この部屋、改装した方がいいけど……)
遥香とサラは客室にイザベルの着替えを運び込むべく、件の部屋で準備をしていた。
「あーあ、こんなに綺麗なのに毒だなんて、もったいない」
サラはドレスの肩を持ち、名残惜しそうに呟く。
「サラさん、そのドレスに触らない方がいいですよ」
遥香はイザベルのドレスやら宝石やらを用意しながら、サラに注意する。
「遥香さんって、なんだかお姉ちゃんみたいです」
サラがむっと、口を尖らせる。
「ほら、これも! とっても綺麗!」
サラはそう言って、繊細なレースのショールをふわりと遥香の肩に掛けた。
「……ちょっ! ダメですよ!」
誰かに見られでもしたら、大変だ。
遥香が慌てて外そうとした、その瞬間。
―――ガシャーンッ!
突然ガラスが割れるような、耳をつんざく音が響いた。
衝撃で体が吹き飛ばされる。
床に叩きつけられ、息が詰まった。
(な、に……?)
視界を上げると、窓際にいたサラが倒れている。
その左足からは、血が出ていた。
「サラさんっ!」
遥香が立ち上がろうとした、その時。
背後から、低く冷たい声が響いた。
「令嬢だな。黒髪だ」
――誰かが、いる。
振り返ろうとした瞬間、視界が布で覆われた。
「……っ!」
口を塞がれ、声が出ない。
「うー!ううー!」
必死に叫ぶが、くぐもった音しか出なかった。
「連れて行け」
別の男の声がした。
身体が、乱暴に持ち上げられる。
(ちがう、私じゃ……!)
「裏門から行くぞ。痕跡は残すな」
上下に揺れ、階段を降りる感覚がした後、夜の冷気が頬を撫でた。
(外だ……屋敷の外に出た……!)
「馬車は用意してある。急げ」
(いや、いやだっ!)
遥香は体を大きく震わせた。男の腕が食い込むほど強く締まり、「暴れるな」と低く吐き捨てられる。
――ゴトッ。
そのまま遥香の身体は乱暴に放り込まれ、固い床に背中を打ちつける。
「んっ……!」
続いて扉がバタンと閉まり、外から閂が掛けられる音がした。
「はぁ、はぁっ」
遥香の荒い呼吸音だけが、やけに大きく響く。
ーーガタン、ガタン。
馬車が走り出した。揺れが激しく、身体が床を滑る。
(どうしよう、このまま連れていかれたら……っ)
闇の中、馬車は無情にも止まることなく走り続けた。
どこへ向かっているのかも、分からないまま。




