記録10-5 寝間着と硝煙、エメラルド色のロマン
「ところで王女殿下。これから先の方針について、何か心当たりはありますか?」
誰の目にも、今日のカティアは行き場を失った羽虫のように迷走しているのが明らかだった。以前は殿下の導きがあってここまで来られたが、今日一日は何の指示もなかった。この広大すぎるダンジョンにおいて、それは決して良い兆候ではない。
ルミエルは背伸びをして、両手を広げて見せた。
「……さあ、私にも分からないわ」
「…………」
「以前は、ある種の微妙な感覚を頼りにここを見つけたけれど、今はもう目的の物の近くにいるのか、それとも別の理由か……。ダンジョンに入ってからその感覚が消えてしまったの。今はただ、前に進むという愚直な方法しかないわね」
「王女殿下。もし出口が、この直線の外側にあったらと考えたことは?」
ルミエルはとぼけた様子で言った。
「あら、ここはダンジョンでしょう? 一つの方向へ進み続ければ、いつかは出口に着くはずだわ」
それは「右手法則」のことだろうが、あれは壁に囲まれた閉鎖的な迷宮で通用する話だ。一番近い人工建造物が、今さっき私が建てた温泉小屋のドアだというこの状況で、何を言っているんだ。
「王女殿下……その方法でここを出られるとは思えませんが」
「あら、ならレスト、あなたに何か良い名案があるのかしら?」
一瞬、言葉に詰まった。確かにいくつか考えはあるが、それが魔法現象にまみれたこの場所で通用する保証はない。
「その顔、何か方法があるのね?」
ルミエルは目を細め、確信を持った口調で問いかけてきた。
「それなら、レストの助力を惜しまないでほしいわね。任務が終わった後には、相応の追加報酬を約束するわ」
ルミエルは言葉を重ねるごとに一歩ずつ温泉小屋へと近づき、最後は見事な身のこなしで反転すると、そのままドアの中へと消えてしまった。一連の動作に一切の無駄がない。
私はため息を吐き、腕の中で眠るレシーナを連れて自分の休息所へと戻るしかなかった。
―――深夜。
何かが近づいている?
私は目を見開き、体を起こして窓辺へと向かった。外を覗き込む。
キャンプ地の中心には簡易的な照明が置かれていた。焚き火ほどの小さな光だ。
明るい場所から暗がりを覗けば、闇はいっそう深く、色濃く見える。だが確信があった。あの黒幕の向こう側に、何かが潜んでいる。
冒険者の鉄則である不寝番も、カティアが結界を張ったことで今は行われていない。何かが結界に接触すれば、彼女が真っ先に察知するはずだ。
だが、淡い緑光を放つその防護壁を眺めながら、私の胸に広がる不安は消えなかった。
(精霊の結界は確かに優秀だが、それはあくまで生命体や魔力反応を検知する仕組みだ……)
私は低く独りごち、冷えた窓枠に手を置いた。この歪んだレガシーダンジョンにおいて、もし近づいているのがそのどちらでもない「何か」だとしたら? 純粋な執念、環境の悪意、あるいは魂さえ枯れ果てた「存在」を前に、果たして魔法は警告を発してくれるのだろうか。
それらはまだ結界の外に留まっている。あるいは……結界が感知できない方法で、静かに浸食を始めているのかもしれない。
ペチャッ、カララッ。ペチャッ、カララッ。
泥濘を踏みしめる粘りつくような足音。それに混じって、乾いた木材同士がぶつかり合うような音が響く。
呼吸の乱れも、筋肉が躍動する鈍い音も聞こえない。それはただ、無数の乾燥した関節が、機械の部品のように泥の中で生硬に、機械的に揺れ動く、規律正しくも生気のないリズムだった。
「どうやら、あいつらは結界の検定範囲外のようだな……」
音が耳に届くということは、相手はすでに視界の及ぶ距離まで迫っているということだ。
アンデッド!! 目の前に広がっていたのは、見渡す限りの骸骨で構成された怪物の波だった。
カティアと衛士たちは薄手の寝間着姿で、中には裸足の者さえいた。湯上がりのしなやかな長髪は乱れている。
その姿は狼狽しているようにも見えたが、武器を構える所作には一点の曇りもなかった。
「忌々しい……不浄なる者どもめ!」
ほう、エルフはアンデッドのことをそう呼ぶのか。それとも、この世界の共通認識なのだろうか。
「全員、王女殿下を護れ!」
カティアが抜き放った配剣には青い幽光が纏わりつき、直後、ゴオッ!と激しい炎が噴き出した。
「火精の涙滴!」
彼女は剣を両手で握り直し、上段から一気に斜めへと振り下ろした。
それは単なる腕力による一撃ではない。瞬間的に暴発させた濃密な精霊力が、周囲の空気と骨をまとめて蒸発させているのだ。その点に凝縮された狂暴なエネルギーは、細剣にすべてを粉砕するほどの重量感を与えていた。
前方少なくとも三列の骸骨たちが、火炎が燃え上がる咆哮にかき消されるように粉砕された。
骸骨たちはその猛烈な熱圧によって一瞬で崩壊し、骨の砕ける音すら響く間もなく、焦土の塵へと変わっていく。
飛び散った残骸は着火装置となり、炎は他の骸骨に触れた瞬間、狂ったように燃え広がった。まるで、この不死族どもの内に見えない油が満たされていたかのような連鎖発火。エメラルド色の精霊火が爆発的に広がり、瞬く間に白骨の波を灼熱の海へと変えてしまった。
わずか一撃。腐臭漂う泥濘は強制的に浄化され、焦熱の空気の中に微細な灰だけが舞い踊っていた。
その光景を目の当たりにして、私に抱ける感情はただ「羨望」のみだった。
魔法とは、これほどまでに物理法則を無視した、傲慢で理不尽な力なのだ。
一瞬でログハウスを建てる私の「アイテムボックス」も、他人から見れば十分に理不尽なのだろう。だが、あんな華やかなエメラルド色の連鎖発火を見せつけられれば、やはり――この視覚的なインパクトこそが、異世界のロマンなのだと思わずにはいられない。




