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冒険者ギルドの記録員  作者: 六花葵
第一巻
33/36

記録10-4 立派な社会人は、星なき湿地で自己暗示に耽る

私は苦笑いを浮かべて休憩所へと歩き出した。やはり、女性と子供の財布が一番狙いやすいというのは世の常らしい。


 ちょうどそこへ、ルミエルが馬車から降りてきた。彼女はキャンプ地の光景をひと目見た瞬間、優雅な表情を凍りつかせ、失神せんばかりの衝撃に目を見開いた。


「これ……もう『アイテムボックス』と呼べる代物ではないわね?」


彼女は岩盤のように強固な基礎と、灰色の霧の中で温かなオレンジ色の光を放つログハウスを見つめ、震える指先で石板の縁をそっと撫でた。


「普通のアイテムボックスというギフトは、せいぜい精巧な鞄を持ち歩く程度のものよ。けれどレスト、あなたは……。あなたはまるで、一つの完全な『領地』を、あるいは街の快適な居住空間そのものを、異空間へ強引に叩き込んだかのようだわ。これはもう常識の範疇を超えている。文明をそのまま持ち歩いていると言っても過言ではないわね」


それは心底からの感嘆だった。わずか一日で、彼女は悟ったのだ。魂を削るようなこの過酷な環境下において、レストが示しているのは単なる「便利さ」などではない。それは、日常という名の平穏を維持し続ける、強靭な精神そのものなのだと。


 決して安くない費用を支払ったとはいえ、日常の暮らしを享受できることは、精神の回復や士気の維持という長期的視点で見れば安い買い物に違いない。


彼女の後ろからは、寝ぼけ眼のレシーナがふらふらと歩いてきた。


 私が歩み寄ると、彼女は呼応するように両腕を伸ばした。そっと抱き上げると、彼女は暖源を求める小猫のように、軽やかな体で私の胸元に丸まった。


 この小さな相棒は、自分の居場所を確認するように私の首筋に顔を埋めて匂いを嗅ぐと、微かな寝息を立て、そのまま喉を鳴らすように眠りについてしまった。


「空間の広さは人それぞれですからね。私はたまたま、その才能に恵まれていただけで」


……ああ、全くだ。自分でもこの空間の広さは、少しばかり、いや、『億』単位でサイズがおかしい自覚はある。ルミエルには、私を基準にしてこのギフトの性能を誤解してほしくないものだな。


彼女は私に抱かれ熟睡するレシーナを見つめ、微笑んだ。


「本当に仲が良いのね。今日一日、ナナが自分から多くを語ってくれたのは、あなたの話をしていた時だけだったわ」


……私の話? 一体何を話したんだ。あのバカ娘、私の手の内をすべて洗いざらい喋ってしまったんじゃないだろうな。


「……王女殿下には、退屈な話を聞かせてしまったようですね」


「いいえ、そんなことはないわ。アイコロ村での経験や、恩師であるマリーさんの話はとても興味深かったもの……」


「マリー」という名を聞いた瞬間、レシーナの寝姿勢を整えようとした私の手が空中で止まった。営業用の冷静さを保とうと努めたが、頬の筋肉が制御しきれず引きつるのを自覚する。


「……マリー先生、ですか。ふふ、確かにあれは『刺激的』な経験でしたね」


沼地の深淵へと視線を泳がせ、自分でも気付かないほど僅かに声を震わせる。


 極地での生存を強要され、魔物に追われ続けたあの「教育内容」。今でも思い出すだけで、首筋のあたりが鈍く痛む気がする。


「ますます気になってしまったわ。あなたがなぜ、冒険者ギルドの記録員なんていう職業を選んだのか」


なぜだと? そんなもの、クソったれな安定のためだ。


 当初、ギルドの募集要項を見て私の脳裏に浮かんだのは、コーヒーの香りに満ちた温かなカウンターの裏で、ふんぞり返って帰還した冒険者たちの自慢話を聞き、ペンを走らせるだけの優雅な引退生活だった。


 だが、その契約書はとんだ文字の罠だったのだ。結果として今の私は、腐臭漂う泥濘の中で馬車を引き、発狂寸前のエルフたちのために風呂を沸かし、挙句の果てにはダンジョンの怪物と命のやり取りまでさせられている。


言葉の並びは同じでも、順番が変われば現場と後勤、天国と地獄の差があるのだ。


「……生活のためですよ。殿下もご存知の通り、私は孤児院育ちでしてね。あの辺境の村では、満足に食うことさえ簡単ではなかった。そんな折に、当時マリーさんが開いていた支部へ迷い込み、そして……」


そこで私は言葉を切り、無意識にルミエルから視線を逸らした。


「……まだ世間知らずだった頃、今思えば人生の黒歴史とも言える契約書にサインしてしまったんです。結果として技を学び、食い扶持も得られた。今ではこうして、ベテランの記録員を名乗れるまでになりましたが」


あれから何年も経つというのに、生きるためにマリーさんの言葉の罠に嵌まり、この業界に放り込まれた時のことを思い出すと、今でも胃のあたりが鈍く痛む。


「……とにかく、こんな見た目ですが、今の私はもう立派な社会人なんですよ」


自分に言い聞かせるようにそう自己暗示をかけながら、腕の中で眠るレシーナがより快適に眠れるよう、手慣れた動作でその姿勢を整えてやる。甘える猫のような重みが腕に伝わる。


 私は、夜闇の中でも腐敗臭を放ち続ける泥濘の沼と、星一つ見えない暗鬱な空を眺めた。


「…………………」


ああ、間違いない。これが立派な社会人というものだ。


 私は心の中で、もう一度自分に言い聞かせた。

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