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冒険者ギルドの記録員  作者: 六花葵
第一巻
30/36

記錄10 記録員のダンジョン商売術

――べチャッ、べチャッ。

 湿った土、泥濘ぬかるみの沼地を、一行は無言で進んでいた。足元の不快な黒泥は、一歩踏み出すたびに無情にも跳ね上がる。


 前方からは時折、不機嫌そうな舌打ちが聞こえてくる。この不潔な環境は、一行のエルフたちにとって、一刻も早く抜け出したい地獄そのものなのだろう。


 だが、それが私と何の関係があるというのか。


 この階層の環境を確認するやいなや、私はシルウォートに来てから購入した、念願の「浮遊馬車」をアイテムボックスから取り出した。レシーナを中に座らせ、私がそれを引いて歩く。


 足元の泥で歩行が困難? そんなものは存在しない。体に触れるすべての黒泥は、即座にアイテムボックスへと放り込まれる。容量に事実上の制限がない私にとって、この程度のステージギミックは八、九割がた無効化できるのだ。


 第一層での火精霊による急激な温度上昇の際も、私はすでに周囲に全方位のアイテムボックスの「開口」を展開していた。あの奇妙な木の扉をくぐった瞬間から、私は身近な気体をすべて遮断し、アイテムボックスへと送っている。そして、口鼻のすぐ近くに別の開口を作り、あらかじめ確保しておいた安全な空気を供給しているのだ。


 こうした能力の使い方は、ギフトが覚醒した直後から練習し続けてきた。局所的な展開から全方位へ、全方位から特定の位置へ、そして展開距離の延伸へ……。数年という時間を費やした訓練は、今もなお続いている。


 アイテムボックスを展開できる範囲こそが、私の奇襲距離であり、あらゆる術者にとっての「斬殺線キルゾーン」なのだ。


「……それにしても、これほど大きな馬車がアイテムボックスに入るものなの?」


 半日ほど歩いた頃だろうか。疲れの色が見え始めたルミエルが、話題を探るように問いかけてきた。


 私は馬車を引いているが、浮遊している上に泥の抵抗もないため、涼しい顔で答える。


「人によるでしょうが、私の空間はかなり広いので。生活用品を多めに詰め込んでいるだけですよ」

「馬車は……生活用品かしら?」


 ルミエルが困惑した表情を浮かべる。すると、前方を進んでいたカティアが振り返り、葛藤の末にひどくバツが悪そうな様子で口を開いた。


「レスト閣下……先ほどの無礼を謝罪いたします。どうか、王女殿下を馬車に同乗させていただけないでしょうか」


 周囲の衛士たちの視線も複雑だ。主君の辱めを死で贖う……といった古臭い騎士道精神のつもりか? それとも、レシーナに叩き込まれた教訓で少しは賢くなったのか。まあ、どちらでもいい。私個人の面子メンツなんて、最初から気にしていないんだ


 私は指をパチンと鳴らし、一枚の立て看板を取り出した。そこには各種サービスの項目と価格が明朗会計で記されている。金さえ払えば、全員乗せてやっても構わない。


「これは……?」


「あなたが私を嫌い、見下しているのは知っています。考えを改めてくれとも言いません。ただ、これはギルドの契約外の『個人サービス』です。怪我人の搬送項目でも検討してみてください」


 ルミエルの目が輝いた。随時注文可能なこのビジネスモデルは、彼女にとって新鮮な経験だったようだ。


「ええと……衣・食・住・行……。輸送の項目……わぁ、金貨十枚!? これ、庶民が半年かけて稼ぐ額じゃないかしら?」


 ルミエルが驚き、首を傾げる。


「でも、記録員は本来、救助の役割を担っているのではなくて?」


「救助そのものは無料です。ですが、救助が実行された時点でその任務は『失敗』と見なされ、即座にギルドへ帰還することになります。もし冒険者が任務の継続を望むなら、記録員に伴走の義務はありません。ですから、このサービスを利用して任務を強行する者がいるのですよ」


「なるほどね。私は怪我人ではないけれど、この輸送サービスを受けたいなら、これを選ぶしかないということ?」


 私が頷くと、彼女はすぐに得心したようだ。物分かりのいい客は助かる。


「つまり、ここに書いてある項目なら、対価を払えばすべて享受できるということね?」


「その通り。万が一、提供できなかった場合は全額返金いたします。ご安心を」


 ルミエルは看板の内容を再確認すると、待ちきれないといった様子で金貨十一枚を差し出した。


「『負傷者搬送』、それから『アフタヌーンティー・セット』を注文するわ」


 言い終えるやいなや、彼女は魔法で宙に浮き、浄化魔法で身を清めてから、汚れ一つない状態で馬車の中へと滑り込んだ。


 ルミエルが馬車内で落ち着いたのを確認し、私は指を鳴らす。


 何もない馬車内の小机の上で空間がわずかに歪み、磁器が触れ合う澄んだ音が響いた。金縁のボーンチャイナ、そしてベルガモットの香りを漂わせるアールグレイの湯気が立ち上る。


 続いて、精巧な飾りのついたケーキスタンドが並んだ。温め直されたばかりのスコーンと、たっぷりのクリームが塗られたケーキ。温かく甘い香りが馬車の周囲に広がり、外の沼地の腐敗臭と残酷なまでのコントラストを描き出す。


 先頭を歩く、靴の中まで泥塗れであろう衛士たちの背中が、目に見えて硬直した。中には思わず唾を飲み込む者までいる。


「ナナ、お客さんを接待してくれ。君も一緒に楽しむといい」


 私は十一枚の金貨を受け取り、その重みを指先で確かめると、アフタヌーンティー代の一枚をカティアへと指で弾き返した。


 金貨は空中で弧を描き、カティアの手のひらに収まる。彼女は当惑の表情を浮かべた。


「レスト閣下、これは……?」


「王女殿下から金貨十枚もの大口依頼をいただいたんです。これ以上、お茶代まで毟り取るのは不人情というものでしょう。その一枚は返しますよ。私からのサービスだ。……さて、出発しましょうか。次はどちらへ?」

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