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冒険者ギルドの記録員  作者: 六花葵
第一巻
29/36

記録9-4 圧倒的な種族の格と、存在しない義務教育

「教えてあげたいのは山々なのですが、まずは私の後ろにいるレシーナに聞いてみてもらえますか?」


 ルミエルがこういう声色を出すたび、レシーナはドライヤーの音を聞いた猫のように過剰反応してしまう。おかげで私の服の腰回りは、これまで何度ボロボロに引き裂かれたことか。これ以上被害が増えないことを祈るばかりだ。


 ……なぜ水のエレメンタルがいなかったのか?

 それは出現場所が悪かったとしか言いようがない。あんな巨大な魔力が私のすぐ周りに収束したのだ。無意識に未知の魔力源を中和デリートする習慣のせいで、有名な四大元素は強制的に「三欠け」の状態にされてしまった。


「王女殿下、これは企業秘密というやつですよ」


「あら、残念だわ。……もしかしたら、お互いの小さな秘密を交換することで解決できるかしら?」


 ルミエルが私の耳元で囁く。微熱を帯びた吐息に心拍数が上がるが、それ以上に、毒蛇に睨まれたような悪寒が背筋を走る。


 その時だった。私の裾を掴んでいたレシーナの金色の瞳が、鋭く収縮した。彼女も気づいたのだろう。先ほど私が指摘した、テーブルの下から滲み出る不自然な気流に。


 ――突如、轟音が爆発した。


 雷鳴のような衝撃波が室内をなぎ払い、先ほどまで形を保っていた重量級の実験机が、レシーナの暴力的な踏み込みによって四散する。煙塵が舞う中、折れた机の脚が一本、部屋の中央に旗竿のように突き刺さった。それは、偽装空間に隠されていた下層への入り口を正確に指し示していた。


「道は見つけた。行くわよ」


 レシーナはすべてを睥睨するような冷徹な眼差しで言い放った。反論を許さない、絶対的な拒絶。


 全員がその純粋な破壊力に気圧された。問い詰めようとしていたカティアも、床に深く突き刺さった木柱を見て喉を鳴らし、息を殺して先頭を切って下層通路へと入っていった。


 それを見たルミエルは、お茶目にぺろりと舌を出した。


「ありがとう、ナナ」


 完璧な笑顔。だが、背を向けた瞬間にその優雅な仮面は粉々に砕け散る。


 心臓を氷のような冷たい手で掴まれたかのように、狂った鼓動が鼓膜を叩き、眩暈が彼女を襲う。掌には冷や汗が滲み、指先は残るプレッシャーに抗えず、細かな痙攣を止めることができない。


 ――今のは、一体?


 それは高位の存在から見下ろされた、生霊としての本能的な警告だった。ルミエルの全身の細胞が叫んでいる。低く、慎重に、己を隠せ。あの眼差しから逃れろ、と。


 ルミエルは理解していた。レシーナが決して人間ではないことを。だがその真の種族までは推測できない。耳も、体毛も、尻尾もない。人化があまりに完璧すぎて、逆に好奇心を刺激されていた。


 だが今、彼女は秘密の一端を垣間見た。あの瞬間に閃いた縦長の瞳の特徵。エルフとして感じざるを得ない絶対的な格の違い。


(――龍族!)


 荒唐無稽な答えが、脳裏に直接浮かび上がった。

 しかも、まだ幼い個体だ。


「はぁ……はぁ……はぁ……」


 脳内の知識と、眼前の現実。そのあまりの衝撃に、ルミエルの呼吸が荒くなる。


「王女殿下、大丈夫ですか?」


 私は心配になって彼女を覗き込んだ。まるで喘息の発作が起きる前兆のように見える。このファンタジー世界において、喘息がどれほど厄介な持病扱いなのかは知らないが。


「平気よ……。ただ、少し息苦しくなっただけ」


 ルミエルはレストを見た。見た目はどこまでも平凡な少年。当初、彼に興味を持ったのは、説明のつかない直感があったからだ。


 確かにこの短い期間、彼は的外れなことを言ったり、理解しがたい冗談を口にしたりした。直感が告げた期待に対して、どこか物足りなさを感じていたのも事実だ。


 だが今、不協和音は消え去った。


 幼龍の手を引き、寝食を共にする少年。彼がこれから綴っていく物語は、ルミエルがこれまでに読んだどんな英雄譚よりも刺激的であるはずだ。


(……この物語の中に、エルフの王女を一人加えるのはどうかしら?)


 ルミエルは考えた。だがその前に、レシーナが時折向けてくるあの得体の知れない敵意をどうにかしなければならない。


 これからの日々が退屈とは無縁になることを確信し、ルミエルの口角が、本人さえ気づかないほど不敵に吊り上がった。


「レスト、この任務が終わった後の予定はあるの?」


「んー……学院にでも通ってみようかな、なんて。青春というやつを体験してみたくて」


 口ではそう言ったが、私にとっては「懐古」と呼ぶべきものだろう。


「青春を体験? 奇妙な言い方ね」


「ええ。皆でゲームをして、授業をサボって、宿題も出さずに。卒業する頃には忘れられない思い出でいっぱい、みたいな」


「えっ? 人間の学院の生徒ってそんな感じなの? それで卒業できるのかしら」


 ああ、差死忘れていた。


 この世界において、入学とは生存のための軍事教練や、家名のための過酷な競争を意味する。火球一つ覚えるために血を吐くような努力をする異世界の精鋭たちにとって、学校に「人生を浪費しに行く」という私の発想は、自殺志願者のそれと変わらないのだろう。


「……まあ、人間なりのロマンですよ。一種の高難易度な修練だと思ってください」


 よく分からないが凄そうだ、と言いたげな視線を向けられ、少し罪悪感が芽生える。


「じゃあ、私もレストと一緒に学院に行ってもいいかしら?」


「ダメ」


 レシーナの冷徹な拒絶。私は彼女の頭を撫でて、それ以上不敬な言葉が出ないように抑え込む。


「殿下、その話はまた今度。第二層に着きましたよ」


 薄暗い通路の先に光が見えた。


 灰色の世界が目の前に広がる。硬かった地面は、足を取られる泥沼へと変わり、枯れ木や腐った葉、泥が混じり合った化学反応による形容しがたい悪臭が鼻を突く。


 上の階の実験室とは対照的だ。ここは見渡す限りの地平、どんよりとした空、そしてまばらな枯れ木。生命の気配が一切感じられない死の空間。


 実験室から泥沼へ。この無茶苦茶な転移の仕組み。ルミエルなら、その答えを知っているのだろうか。

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