記録9-3 焦げ付く肺部と、消えた水精霊
木製の扉がゆっくりと押し開かれた。エルフの衛士たちは弓を引き絞り、さながら人質救出作戦を控えたデルタフォースのような突入態勢をとっている。そのあまりに場違いな光景に、私は危うく吹き出しそうになった。
一行の中で表面上の最大戦力であるカティアが、腰の剣の柄に軽く手をかけ、慎重に中へと踏み込む。
……いや、待て。ここはただの入り口だぞ。何をボス部屋に入るような緊張感を出しているんだ。この世界のダンジョンはそれほどまでに過酷な環境なのか? 墓荒らしにだって順序というものがあるだろう。入り口をくぐった瞬間にトラップのフルコースがお出迎え、なんて場所があるはず……。
「王女殿下、中へ。安全を確認しました」
扉の外で少し待機した後、カティアと衛士たちの安全確認を経て、ルミエルがようやく入室した。
扉をくぐる前、あの原生林の中には、ただポツンと扉が立っていただけだった。
だが扉をくぐった先は、想像を絶する空間だった。陳列された調度品から形容するなら、そこは書斎の機能を兼ね備えた「実験室」だ。
部屋の中央には、ダブルベッドよりも巨大なテーブルが七、八台並んでいる。その上には色とりどりの薬水や得体の知れない材料が所狭しと並び、あるものは鼻を突く清らかな香りを放ち、あるものは腐った卵に匹敵する悪臭を漂わせている。点々と蛍光を放つ鉱石らしきものも見えた。
壁一面は書棚に占領され、そこには膨大な数の書籍が詰まっている。表面を魔力が流動する魔法書や、小山のように積み上げられたスクロール、さらにはペンダント型の魔法道具が棚に無造作に転がっている。
「王女殿下……?」
カティアが何かを確認するように問いかけた。
「ええ、グレイブン大師の実験室で間違いないわ。でも、目的のものはここにはないようね。全員、細かく探してみて」
皆が収納場所らしき場所を片っ端から漁り始めるのを眺めながら、私はこれが「ダンジョン」なのかと自問した。ただの亜空間のような場所ではないか。こんなところに、ギルド長がわざわざアイテムボックスのギフト持ちを指定して同行させる必要があるのか? もしそうなら、これまでの不満は撤回しよう。いくらなんでも稼ぎが良すぎる。
三十分が経過した。部屋の中の動かせるものは、そのほとんどが床にぶちまけられていた。
ゴミのように扱われているこれらの中には、人間社会のオークションに出せば高値がつくものがいくらでもある。普通の冒険者なら決して見過ごさないだろう。彼らにとって依頼の達成は固定報酬だが、道中で手に入れたものはすべて「追加ドロップ」としての儲けになるからだ。
だが、レストとしての私はあくまで「記録員」だ。冒険者のように戦利品に手を出すことは許されず、ただ冷ややかに事の顛末を見守るしかない。エルフたちの浪費っぷりに胸を痛めつつも、私は高いプロ意識を持って待機していた。
しかし、これほど重要な実験室に防衛機構がないはずがなかった。案の定、エルフの衛士たちが隠し棚や秘密の部屋のスイッチらしきものを見つけ出した瞬間、この実験室は不法侵入者を排除するための動きを開始した。
空間内の魔力素が乱れ始め、渦を巻くように一箇所へと集中していく。やがて肉眼で確認できるほどの形を成し、地・風・火の三体の常連、上位元素精霊が現れた。放たれたのは、この場にいる者たちには少々過剰すぎるほどの魔法攻撃だ。
室温が急上昇する。まず床に散らばった紙の書籍が自然発火し、次いで発火点に達した物品が次々と炎を上げた。
さらに空からは、黒曜石が激突して砕けたような、爪の先ほどの石片が無数に降り注ぐ。その破片の縁は刃のように鋭い。それらは狂風に巻き上げられ、狭い空間内を縦横無尽に飛び回り始めた。
「精霊王の加護!」
隣にいたルミエルが魔法を唱えると、彼女の頭上に茨で編まれた冠のような幻影が浮かび上がった。
全員の周囲に数多の星芒が浮かび、光の糸がそれらを繋ぎ合わせる。点から線へ、線から面へと繋がり、全員を覆う光の防壁となって元素精霊の攻撃を遮断した。
カティアは即座に愛剣を抜いた。剣身には精霊碑文が刻まれており、魔力を注ぐと全体が幽光を帯びる。それを鮮やかに一閃。実体のない地のエレメンタルを真っ二つに切り裂いた。
他の衛士たちは二人一組となり、一人が弓を構える。連射される矢にはエルフ特有の元素の力が込められ、上位元素精霊の形体を無残に散らして核を露出させた。
もう一人の衛士が腰から祭祀用の小刀を抜き放ち、肉薄してその核を突き刺す。核は瞬時に塵となって霧散した。
「ゴホッ……ゴホッ……!」
カティアを含むすべての衛士たちが、急激な室温上昇によるダメージを受けていた。物を燃やすほどに熱せられた空気は、彼女たちの肺を内側から焼き、ひどくむせさせた。
「『蘇生の春風』」
ヒーラー役でもあるルミエルが治癒魔法を施した後、済まながそうに口を開いた。
「ごめんなさい、援護が遅れたわ」
王族である彼女も、実戦経験の不足を認めざるを得なかったようだ。ルミエルの防壁は後続のダメージを遮断したが、火のエレメンタルの初手による熱気までは防ぎきれなかった。
「……っ……はぁ……っ」
カティアは荒い息を吐きながら、口元に滲んだ血を乱暴に拭った。ルミエルの治癒魔法を受けた後でも、肺を焼かれた余韻は針で刺されたような痛みとなって残っている。護衛長を務める彼女にとって、これほどの失態を演じたことは耐え難い屈辱だった。
彼女は剣を杖にして立ち上がり、混乱した現場を見渡す。そして、その怒りと羞恥の入り混じった視線を、一歩も動かずに立ち尽くしていたレスト――私に叩きつけた。
その瞳は困惑から、やがて何かを侵害されたような焦燥へと変わっていく。
「貴様……」
カティアの声は火傷のせいで掠れていたが、それがかえって獣の低いうめき声のように響いた。
「……なぜ、貴様だけが無傷なのだ?」
彼女の視点では、先ほどの魔法の乱気流は無差別だった。だが冷静に思い返せば、私が立っていた場所こそ、最も激しく魔力が収束していたはずだった。
戦士の直感が告げている。これは幸運などではない。この小僧の悠然とした態度は、まるで死に物狂いだった自分たちを嘲笑っているかのようではないか。
「おかしいわ……地、水、火、風の四大元素は、単体で現れるか、一斉に現れるかのどちらか。先ほどは水のエレメンタルだけがいなかった。そしてその出現ポイントは……貴様の真後ろだったはずよ!」
カティアが一歩前へ踏み出す。剣先こそ向けられてはいないが、自尊心を傷つけられた彼女から放たれる圧迫感は、先ほどの熱波よりも熱かった。
「貴様、一体何をした?」
私は鼻をすすり、その問いには答えたくないという態度を隠さなかった。
「何をしたか、ですか? 見ての通りですよ。傍らで職務を全うし、危なくなれば助けに入る。それが記録員の仕事ですから。もっとも、そのサービスが必要になる場面はなさそうでしたが」
カティアが奥歯を噛みしめる。
「……私が何を言いたいか、分かっているはずよ!」
ええ、分かっていますとも。だが、なぜそれを貴女に教える必要がある?
私はとぼけ続け、強引に話題を逸らした。
「王女様、私からの特別サービスです。あのテーブルの下、何かあるようですよ」
ルミエルは一度呆れたようにカティアに視線を送った。だが次の瞬間、彼女は王族としての厳格な面を脱ぎ捨て、悪戯っぽい少女の表情を張り付けて、私を覗き込んできた。
「私も気になっていたの。レスト、教えてくれないかしら?」
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