第19話 「それぞれの黄泉比良坂」
御之は、後ろ手に拘束されたまま何もない一点を見つめていた。
花緒はその横顔からそっと目を逸らす。
御之の口から、断片的に語られた過去。
大学時代、舞という女の子と付き合っていたこと。
千助とは大学三年の時に知り合ったこと。
御之が使う式神繰りの術は、彼の家に伝わってきた古い記録を、千助が読み解いたものだったということ。
御之本人のこともだが、千助についてもようやく腑に落ちた。
亜蓮と御之。そこへどうして千助が加わったのか、花緒にはずっと接点が見えなかった。
だが、御之と千助が元々の知り合いで、千助が千年京を渡り歩くための知識を持っていたのなら、無理矢理仲間へ引き入れられてもおかしくない。
そして……ここから先は聞かなくてもわかる。
何らかの理由で、御之は舞を伴って千年京へ入った。
ヤマタノオロチは実体を得て——舞は命を落とした。
「……ヤマタノオロチが封印されていたのは、貴方の家の血ですね。」
「そうや。ようわかったな。」
御之は目だけを花緒へ動かした。
「そういや、花ちゃんも亜蓮もそういう家の血筋なんやったな。」
「それもありますが、貴方の家の禁忌です。」
言葉を選びながら、花緒は続ける。
「ただ水難を警告したい為の禁忌なら、『雨の日に山へ入るな』とか、『雨に風が混じったら気をつけろ』とか、そういう形になると思います。でも貴方の家に残っていたのは、天候に関係なく、川そのものを避けさせたいみたいです。……何かが力を取り戻すのを防ぎたいように。」
「その通りや。」
御之は横になったまま視線を遠くへ流した。もうあれこれ隠す必要が無いと判断したのか、淡々と話しだす。
「ご先祖さんも気づいたんやろな。ヤマタノオロチは何度も復活する。完全に倒せん。せやから、どう力を弱めるかを考えた。だからヤマタノオロチの性質を、三首と五首に切り分けた。」
「確か、貴方の式神は三ツ首のオロチでしたね。」
「ああ。……頭が三つの『怪物』は昔からようおるし、『世界』を五つの要素で表す思想も存在する。要はそういう形を借りたんやろな。」
三と、五。
八ツ首の大蛇を、二つの性質へ分ける。
「ご先祖さんは、三ツ首を『怪物』として自分達の血に封じた。そして残った五ツ首は、自然にお返しした。」
「雨も、風も、人間がどうこうできるもんやなかった。ヤマタノオロチが自然そのものを含んどるなら、封じるべきは人が生み出した怪物の方だけや。けど、怪物も語り継がれる限り消えることはあらへん。」
御之の目が細くなる。
「せやから、ご先祖さんは待つことにした。この世から、ヤマタノオロチの伝説が途絶える日をな。」
気の遠くなるような時間を紫月家は血を繋ぎながら待ち続けてきた。
だが、そんな日は果たして本当に来るのだろうか。
もしその日が来るとしたら、それは繋ぐ人類が絶えた日かもしれない。
「……途方もない、ですね」
「まあ、俺の代で終わったけどな。」
御之は何でもないことのように言った。
この人は、それも全て自分の責任だと思っているのだろうか。
花緒が俯く。
「……やっぱり、私は貴方に謝らないといけません。」
御之は少し目を丸くした。
本当なら、彼にもあったはずなのだ。
幸せな生活も、その先の未来も。
それらを全て失ってなお、この男は何事もなかったように立って笑っている。
今は、その姿が痛々しいとさえ見える。
「……すみません、でした」
「花ちゃんが悪いことしたわけちゃうやん。」
「……」
「ほら、俺も早いとこ話しとくべきやったやん。な、おあいこな。」
「……その、」
花緒は目を逸らした。
「……お会いしてみたかったです。舞さんに」
ただの、素直な気持ちだった。
彼の喪失に、ほんの少し寄り添いたかっただけだった。
「……」
御之は瞬きをして、わずかに首を上げる。
「ほんなら、会うてみる?」
「……え?」
どこからともなく、御之はガラケーを手にした。
親指がボタンを押す。
黒い霧が二人の間に滲み出し、空間を四角く切り取るように輪郭を作る。
現れたのは、黒い硝子の棺にも似た結界だった。
中に——女が眠っている。
「——な」
花緒の呼吸が止まった。
御之が笑う。
「な? ——可愛いやろ。」
答えられない。
——舞だ。
映像の中で、飛び跳ねて、笑って、泣いていた、その女の子が目の前にいる。
顔の右半分を覆う火傷の跡さえそのままだ。
けれど、その肌に生者の色はない。
「……舞さんは……亡くなったはずでは……?」
「ああ。」
御之は当たり前のように答えた。
その目は、血の気が引くほど正気だ。
「……では……どうして……」
目が黒い棺に吸い込まれる。
気づきたくないのに、目が離せない。
「どうして舞さんがここにいるんですか?」
御之は花緒を見返した。
その目は、笑っていた。
「なんでって」
さも当然のことのように、
あの不敵な目の色で、
「生き返らせるからに決まっとるやん。」
* * *
——2029年、春。
御之と舞は揃って大学院へ進んでいた。
御之は中高の教員免許も取りたくなって、舞も予定していた学部の課程へ進んだ。
そしてこの頃、舞はそれまで巻いていた包帯をやめ、顔を覆うのはマスク一枚だけになっていた。
——2029年4月13日。
後に、『逢魔時』と呼ばれる災厄が起きた日。
御之と舞は、西陽の眩しい東京の街を歩いていた。
舞は、さっき参加したブライダルフェアのパンフレットを両手で広げ、難しい顔で睨んでいる。
「やっぱ、すぐ結婚する予定とちゃうんに見学って迷惑やったかな……」
「まだそれ言ってんか。大丈夫て書いてあったやん。」
式場の試食は、貧乏学生には少々パンチが強すぎたらしい。フルコースの美食にスパークリング、見学後のコーヒーにお土産のクッキーまで渡されて、舞はすっかり恐縮してしまった。
「つか、見積りエグかったなぁ……」
「うん。でもやっぱ、洋式てええな! ドレス可愛いし、宴会場広いから踊れるな!」
「トイレみたいに言うなや。それよか舞ちゃん、神前式は見んくてええん?」
「……? 別にええけど……?」
舞の表情が少し固まった。
——確か、その時だ。
突然、御之の身体の中心を巨大な塊が突き抜けた。
身体を大木で横殴りにされたような衝撃だった。
膝が折れ、地面に両手をつく。
溺れそうになる。息が入ってこない。
どれくらいそうしていたのか、やがて重圧は波が引くようにすっと消えた。
「っ、は……」
ようやく空気が胸へ流れ込む。
顔から冷や汗が落ちた。
耳鳴りが薄くなり舞の声が戻ってくる。
「ゆきくん、大丈夫か!?」
「あ……平気や……」
呼吸を整えながら顔を上げる。
「珍しいな、貧血?」
「いや、ちゃうと思う……。舞ちゃんはなんともないんか?」
「うちはなんともないよ……?」
舞の視線を追って、御之も辺りを見回した。
倒れている人、胸を押さえて座り込んでいる人、何が起きたのか分からず立ち尽くしている人。
自分だけじゃない。
「なんか、様子おかしいな……?」
きょろきょろする舞の手の中でスマホが震えた。
舞が通話ボタンを押した途端、先輩の切迫した声が飛び出す。
『舞ちゃん達、まだ東京いる?』
「先輩? これから帰ろうと思とったとこです。」
『良かった……。二人とも、今日は帰らない方がいい。これからスタジオ来れる?』
「なんです? なんかあったんですか?」
『……SNS見て。ごめん、また後でね。』
通話が切れた。
御之がすぐにスマホを取り出す。
検索をかけるまでもなかった。
タイムラインを埋め尽くしていたのは、炎に包まれた遠都の街だった。
何度も歩いた大通りに黒煙が立ちこめ、炎の中を黒い何かが這い回っている。
人ではない。獣でもエイリアンでもない。
激しく揺れる映像の向こうで誰かが何か叫んでいる。
「……なんや、これ……」
舞が口元を覆う。
その瞬間、画面が着信表示に切り替わった。
——《羽峰休 千助》
御之が通話ボタンを押した。
「もしもし!」
『良かった……電話出たな……』
荒い呼吸が聞こえた。
御之の声を聞いて、千助が息をつく。
『紫月……今どこだ?』
「こっちは東京や。そっちは? 今どこや?」
低い声が返ってくる。
『大学だ……』
——御之の息が詰まった。
千助は路地に身を隠しながら、炎に包まれた大学を見上げていた。轟々と燃え盛る炎に混じって、悲鳴やガラスの割れる音がする。
「一体、何が起きとんねん? あれはなんや? ほんまもんのバケモンなんか?」
『わからねえ……。でも、大学は火の海だ。』
電話の向こうで、大きな壁が崩れ落ちる音がする。
『今、遠都中で、妖怪とか霊とか、そういうのが次々実体化して暴れ回ってる。お前んところに封印されてるヤマタノオロチが本物なら、マジでとんでもないことになる。だから、お前は絶対こっちに来んな。』
「来んなて……お前はこれからどうすんねん……!」
『俺は先生達を助けに行く……』
「は——!?」
千助の喉が震えた。
ペットボトルの水が入ったビニール袋をキツく握りしめる。
『今日、大学の講堂で、民俗学とか考古学とか、そういう分野の権威の先生達が集まったシンポジウムがあったんだ……。もしこれが霊的大災害なら、絶対先生達の力が必要になる。絶対助けないと……!』
「そんなん、お前が行ってどうこうなる話とちゃうやろ!!」
『んなこと俺だってわかってるよ!!』
泣き出しそうな声がスピーカーを裂いた。
『でも、俺はまだ無事なんだ。動けるんだ。だったら行くしかねえだろ。紫月、お前はもう、絶対こっちに戻ってくんなよ。それだけ言いたかったんだ。』
「……待て。千助、お前俺のうちの古書の解読どうなった?」
『……全部はわからなかった。ごめん……』
千助の声が沈む。
『卒論の方が忙しくなって、そっちまで手ぇ回らなかった。でも、途中までまとめたファイルと、本の写真撮っておいたやつがある。それを送ったら行くよ……』
程なくメールの通知が浮かんだ。
まるで、遺書が届いたみたいだった。
『紫月、急いでるから全部は説明できないけど、最後になるかもしれないから鵜呑みにして聞いてくれ。多分、ヤマタノオロチを封じたのは、お前んとこの血なんだ。』
「血……?」
『血脈だよ……。でも、八つ全部じゃない。きっと、力を弱めるために切り分けたんだと思う。』
「五と三やな?」
『……そう。覚えてんじゃん……』
千助が、ほっと息を吐いた。
少しだけ笑った気配がする。
『……ごめん。そろそろ、ほんとに行くわ。あとはマジで、自分で読めよ。……はは。でもさ、俺が大真面目に読んだことが、全部デタラメの空想で、あれが、誰かの書いたおとぎ話とかなら、マジで面白ぇよなって……、お前もっ、そう……思うよな……』
笑おうとする千助の声。最後は、涙で震えていた。
御之の喉が詰まった。
あんなに楽しそうにしていた千助が、今この瞬間、自分の研究が全部間違いだったことを願っている。
「千っ——」
『ごめん! 陽キャの友達できたみたいで、ちょっと楽しかったわ。ほんじゃあな……!』
呼び止めようとした瞬間、通話が途切れた。
無言で画面を見つめる御之の隣で、舞が怯えた目をして立っている。
「……助けに行くん?」
「……行かへん。」
——今は。
心に決めて、御之はスマホをポケットにしまった。
二人は真っ直ぐ、先輩のスタジオへ向かった。
そこで先輩と合流し、彼の自宅マンションに着いた頃には、外は夜の色に染まっていた。
最近リフォームしたきり使ってないのか、室内は綺麗で、まだ生活の匂いが薄い。
「この部屋、好きに使って。俺と嫁はこのまま友達んとこ行って、しばらく帰らないから。」
「すいません……ありがとうございます。」
「気にすんなって! その代わり、二人共しばらくはうちのスタジオの店番頼んだぞ。」
バンッと肩を叩かれた。
先輩は手早く荷物をまとめると、いつも通りの笑顔で手を振り部屋を出ていく。
ガチャンと鍵がかかり、御之はバクバク鳴る胸を押さえた。
「びっくりした〜……。今惚れるか思たわ……」
「だから言うたやん! 先輩はかっこええねんて!」
*
一方、マンションの階段を駆け降りながら、男はスマホを耳に当てていた。
「……すいません。今学生の面倒見てました。先輩、東京にいたんですね。無事で良かったです。」
『いや……こっちこそ、こんな時に悪いな。』
電話から聞こえる、焦りを押し殺した男の声。
その向こうでは、新幹線ホームのアナウンスが鳴り続けている。
「何かありましたか?」
『お前、確か若い子に顔がきいたよな。遠都大の生徒もいるんだろ?』
「すいません、僕のはそんな幅利かせるような人脈じゃないですよ。……もしかして人探しですか?」
『二十歳の女の子だ。名前は鮎河 花緒。東京駅ではぐれた。もしかしたら遠都に引き返してるかもしれない。』
「……わかりました。僕でわかることあったら連絡しますけど、本当に期待はしないでくださいよ。」
『……頼んだ。』
通話が切れた。
混乱するホームに立ち尽くし、男——慈雨月はスマホをきつく握りしめる。
その頃には、もう、花緒は借りたバイクに鍵を差し込んでいた。
ヘルメットを被り、エンジンが唸る。
夜の街へ飛び出したバイクのテールランプが向かう先は、炎に包まれた遠都だった。
*
——深夜。
明かりを落としたリビングのソファに座り、御之は千助が残したファイルを読んでいた。
スマホの白い光が、顔を四角く照らしている。
シャワーを終えた舞が、濡れた髪のまま近づいた。あまりにも真剣な横顔に、声をかけるのを少しためらう。
「……千助君、心配やな。」
「……あいつならきっと大丈夫や。」
根拠はない。それでも、千助は生き延びる。そんなぼんやりとした確信があった。
「みんな……無事やろか……」
「……」
大学の知り合い、同期、友人、名前も知らない人々——。
考え始めたら不安は尽きない。
舞が隣に腰を下ろした。
御之は、その頭を自分の肩へ寄せる。
遠都のアパートへは当分帰れそうにない。
これからどうなるのかもわからない。
御之は再び資料へ目を落とした。
千助がまとめたレポートは、彼らしい柔らかな文章で綴られている。添付されたデータには、渡していた古書の全てのページが写真で残されていた。
——恐らく今日、世界の仕組みはひっくり返った。
これまで『ありえない』と思っていたことが、現実に起きている。なら、他の何かを『ありえない』と切り捨てる根拠もない。
そう前提すると、あれほど受け取ることを拒否していた記録と伝承が嘘のように理解できた。
ヤマタノオロチ。
封印。
血を介した継承、力を薄め、いつか消える日を待つこと。
これが全て、現実に起こっているとしたら……。
ふと、御之の指が止まった。
——『式神の使役』。
御之は、その項目を何度か読み返す。
「……よし」
「どうしたん?」
「明日、買い物行くで。」
——翌日。
御之はジャンクショップで中古の携帯電話を買った。平成後期に作られた、古い折りたたみ式のガラケーだ。
アパートへ戻るなりすぐに作業を始める。
印をボタンに。
手順を番号に。
千助が読み解いた式神繰りの術式を、一つ一つガラケーへ落とし込んでいく。
古い術を、自分が使える形に組み直す。
「なんでガラケー?」
じっとそばで見ていた舞が口を開いた。
「これが一番ええねん。」
「スマホあるやん。」
「物理ボタンの方が間違えへん。短縮ボタンもあるし、画面見んでも押せるからな。」
「……やっぱりな。」
舞の声が低くなった。
御之が顔を上げる。
舞は、じっと御之の目の奥を睨んでいた。
「ゆきくん、遠都に戻ろうとしとるやろ?」
御之の指がボタンの上で止まった。




