第20話 「熱」
※本話には、一部残酷な描写・水害を想起させる描写が含まれます。閲覧の際はご注意ください。
* * *
「ゆきくん、遠都に戻ろうとしとるやろ?」
御之の指がボタンの上で止まった。
窓から差し込む夕陽が、リビングを橙色に染めている。ローテーブルの上には、千助から送られてきた資料を表示したスマホ。御之の手には、買ったばかりのガラケー。
「わからんと思ったん?」
御之が黙っていると舞は眉を寄せた。
「朝からずーっとそれやん。ガラケーまで買うてきて、行って何するつもりなん!?」
「行ったらあかんの?」
「あかんに決まっとるやろ!!」
舞は仁王立ちになって怒鳴った。
御之は目を伏せ、黙り込む。
ぱちん、とガラケーを閉じる。
どう言い返してくるかと、舞は御之を睨んだ。
御之はガラケーをテーブルに置くと、静かに口を開く。
「……舞ちゃん、京都の久良瀬神社の娘さんやろ。」
舞の表情が固まった。
御之はその顔を見て笑う。
「やっぱりなぁ。可愛い可愛い思とったけど、巫女さんやったとはなァ。ずるいな舞ちゃん。属性盛りすぎやん。」
「……ちゃう。巫女さんなんかやったことない。ただの遠縁の親戚や。」
舞が両拳を握りしめる。
「ジジイに頼まれたんやろ? 俺の様子見てこいって。せやから、俺に声かけたんやんな?」
小さな子供に尋ねるような声だった。
舞はしばらく立ち尽くしていたが、やがて観念したようにソファに腰を下ろす。
夕陽が、薄紫の髪を透かす。
「……最初だけやで。ほんまに最初だけ。おじいちゃん同士、昔から付き合いがあったみたいで。孫が同じ大学におるから、ちょっと気にしてやってくれって。」
膝の上で、舞の指が固く組まれる。
「……騙すみたいなことして、ごめん。」
「ええねん。京弁喋っとった時点でなんかあるんやろなとは思とったわ。」
「最初から気づいてたん?」
「まあな。」
「……そうか。いけずやなぁ。」
舞は困った顔で笑った。
実家を出てから、祖父とはほとんど連絡を取っていなかった。それでも、自分がどこの大学に進んだのかだけは教えていた。
——配偶者は、神職の血筋から取らねばならない。
大方、これが縁になって上手くくっつけば上々とでも思ったのだろう。
その祖父だって、結果も聞かず二年前に逝ってしまったが。
「……怒っとる? 人に言われて仕方なく付き合うた思てる?」
「全然。舞ちゃんが俺のこと好きなん知っとるし。」
最初は、なかなか上手い理由をつけて近づいてきたもんだと思っていた。
だが舞は、そんな御之の警戒など知りもせず、自分のやりたいことに御之を巻き込み、引っ張り回した。
いつの間にか日常に舞がいるのが当たり前になっていて、先に手放せなくなっていたのは、自分の方だった。
「ろくなもん残していかんかったけど、舞ちゃんと会わせてくれたことだけは、ジジイに感謝しとるわ。」
御之が、舞の手に手を重ねる。
柔らかい手が温かかった。
「でも、せやから行きたいねん。」
祖母も、母も若くして死んだ。
父は一人で御之を育てた。
自分にも同じことができるのかなんて考えたくもない。
舞が先にいなくなる。自分だけが残される。
生まれてくるかもしれない子どもまで、同じ目に遭う……そんな未来にしたくなかった。
「でも、この力を使たら、俺ん中におるもん追い出せるかもしれへん。それ以上のことするつもりはないんや。遠都をどうにかしたいとか、この力で悪いもんやっつけたいとか、そないな大仰なこと考えてへん。」
世界をどうにかしたいわけではない。
ただ、普通に舞と生きたいだけだ。
「昨日見た式場、めっちゃ良かったやん。戻ってきて卒業したら——」
「待って! 今その話すんの縁起悪すぎるやろ!」
舞がいつもの調子で遮った。
御之は笑って、その頭に手を置く。
「舞ちゃんはここにおってくれ。用が済んだら戻ってくるから。」
「はぁ? なんやそれ嫌や。」
睨みつけながら、舞は御之の手を払いのける。
「あんなゆきくん、カッコつけても無駄やで。昨日ぶっ倒れとったやつが『ここで待っとれ』、『帰ってきたら結婚しよ』? フラグ立てるにもほどがあんねん。」
今度は御之が眉を寄せた。
自分が目的を果たす前に、また動けなくなったらどうするか。そのリスクは解決できていなかった。
「千助君、昨日言うとったやん。遠都中の霊とか妖怪とか、今まで見えへんかったもんが実体化しとるって。」
舞が御之の手を握る。
「それがほんまなんやったら、うちにも何かできるかもしれへん。じいちゃん達がうちらを繋いでくれたんって、うちがゆきくんの力になれるかもしれへんからやろ?」
真っ直ぐ、御之を見た。
「ゆきくんがやめへんならうちも行く。ゆきくんが行く理由に、うちも関係あるんやもん。置いてこうとしても無駄やからな。」
*
「——それ以上、何言うても舞ちゃんは譲らんかった。」
いつの間にか、御之は起き上がって壁を背に胡座をかいていた。
「俺達がやろうとしたんは、ヤマタノオロチを呼ぶ儀式や。」
パキン、とガラスの割れる音がした。
結晶の拘束をあっさりと砕いて、御之は手首を軽く回す。
「ご先祖さんがヤマタノオロチを切り分けて紫月の血に封じたなら、同じ手順を辿れば、外に出して固定することもできるんちゃうかって考えた。」
「どうして……そんな無茶なことを……」
御之は自分の右手に目を落とした。
「無茶とは思てへんかったで。準備は徹底的にやったからな。千助が送ってきた資料も古書も全部読み直した。舞ちゃんも京都の親戚んとこ何回も行って神事のこと調べてくれた。二ヶ月、ほとんどそればっかや。」
口を閉ざし、御之は目を細めた。
「俺らはこの計画を、『八岐神楽』呼んどった。」
* * *
儀式の場所に選んだのは、遠都の北西にある山だった。
谷間を縫うように一本の川が流れ、両側には山肌を削って作られた棚田が残っている。その川上に、開けた小さな平地があった。
山に囲まれた谷を、水が流れる土地。
ヤマタノオロチを呼び出すなら、少しでも伝承に近い条件を揃えた方がいい。
「ここしかないな。」
「ああ。」
遠都——今は千年京と呼ばれるようになった地への侵入経路を調べ、あとは、天気が崩れる日を待った。
決行の日。
朝から空は黒い雲に覆われ、山へ近づくにつれて風が強くなっていた。
「……降らへんな。」
ハンドルを握ったまま、御之はフロントガラスの向こうを見上げる。今にも雨が降り出しそうなのに、一滴の雫もガラスを濡らさない。
後部座席には、儀式に使う道具が山のように積まれている。
「朝から雨や言うてたよな?」
「……昼に変わったみたい。」
車は細い山道を進んでいた。
助手席の舞はスマートフォンから顔を上げ、窓の外を見つめる。
「なんか、静かすぎへん?」
言われて、御之も気づいた。
千年京へ入ってから、一度も異形の姿を見ていない。
一歩踏み出せば魑魅魍魎がひしめいていると聞いていたのに、化け物どころか鳥の気配すらなかった。
——自分の中のヤマタノオロチを避けている?
一瞬浮かんだ疑念を振り払い、御之はアクセルを踏み込んだ。
曲がりくねる山道を登り切り、二人はあっさりと目的地へ辿り着いた。
路肩に車を停め、荷物を抱えて平地へ出る。
眼下では、細い滝が白い筋を引いていた。
平地はそこへ迫り出すような形になっていて、広場の隅には小さな祠がぽつんと建っている。
二人は段取り通り、持ってきた荷を解いた。
祭具はすべて本物だった。
二人で竹を立て、縄を張る。
白い紙垂が強い風に煽られ乾いた音を立てた。
簡易的な祭壇を組み、米、塩、水を供える。
そして酒。
舞が八つの器へ、一つずつ酒を注いでいく。
「舞ちゃん。」
「なに。」
「それ、ほんまに着るん?」
「あ?」
振り返った舞が眉を寄せた。
白衣に緋袴。
いつも顔を隠しているマスクも今日ばかりは外している。
赤い火傷の痕があらわになり、癒着した右の瞼は閉じたままだ。
それでも鈴を手に祭壇の前へ立つ姿は、どこからどう見ても巫女さんだった。
「いや。似合とるな思て。」
「おい、真剣にやれ。しばくぞ。」
「褒めとんのに。」
大真面目に見つめる御之を、舞が睨みつける。
この日のため、舞は親戚の元で神楽を覚えてきた。禊も済ませ、教えられたことは全て守っている。
「ほな、ゆきくんそこ立って。」
舞に示され、御之は結界の外へ立つ。
舞も結界の中へ入り、鈴を握った。
その動きが、ふと止まる。
「……ゆきくん。」
「ん?」
「……やっぱ、やめへん?」
舞は、自分達が作り上げた祭場を見回した。
「なんかうちら……神楽の真似事しとるだけみたいや。」
風が吹き抜け、紙垂がばたばたと頼りなく揺れた。
御之も祭場を見渡す。
確かに、ずっと同じ違和感はあった。
何一つふざけていない、神楽も正確だ。なのに、肝心な何かが抜け落ちているような。
「……でも、やるしかないやろ。ここまで来たんやし。」
「……そう、やな。」
意を決して、舞が鈴を構えた。
神楽が始まった。
鈴の音が山中へ響く。
白い袖が強い風を受け、緋袴が大きく揺れた。
御之は目を閉じたまま、風の動きだけで舞の神楽を感じていた。
頼む。
これで終わりにしてくれ。
もう、俺から出ていってくれ。
舞が祝詞をあげる。
……意味はこうだ。
紫月が代々預かってきたものを、今日、ここでお返しします。
二つに分けた御体を、あるべきところへ。
もう、人の血に留まる必要はありません。
どうか、お還りください。
辺りが静まり返った。
御之が顔を上げる。
「……終わり?」
「終わり。」
一分、二分と待つ。
……何も起こらない。
「失敗したんかな……」
「えっ、ほな舞ちゃん巫女さんのカッコして踊っただけやん。」
「やめえや!」
場が緩んだ、その時だった。
舞の表情が固まる。
「ゆきくん、手」
御之は自分の右手を見た。
手の甲に、黒い文字が一つ浮かんでいた。
墨を皮膚へ染み込ませたような、梵字に似た古い文字。
「……来た。」
御之の声が震えた。
「ほんま!?」
舞が駆け寄ってくる。
心臓の鼓動が速くなる。
怖い。だがそれ以上に興奮した。
終わる。
生まれた時から、自分の人生に先回りして居座っていたものが、ようやく消えてくれる。
「舞ちゃん、危ないから下がっとき。」
舞が頷き、結界の中へ引き下がる。
あの中にいれば、舞は安全のはずだ。
その間も文字は増え続ける。
手首から肘を越え、袖の下へ潜り込み、肩へと広がっていく。
さあ、どこに現れる。
川か。
地面か。
「……ゆきくん。なんか変や。」
「大丈夫や。どこに出てきても一発で固定できる。」
「そうやない、なんか嫌な感じする。」
御之はガラケーのボタンへ指を置いた。
その時だった。
手の甲に浮かんだ一文字が、裏返った。
——ぱた。
ぱた、ぱた、ぱた、と。
見えない何者かが、一枚ずつ駒を裏返していくように、鱗のように肌を埋め尽くした文字が次々と向きを変えていく。
舞の顔から血の気が引いた。
「ゆきくん、それヤバい!」
舞がこちらへ走ってくる。
白い袖が、風の中で大きく翻った。
「舞ちゃ」
そこから出てはいけない。
口を開いた、瞬間。
全身の文字が一斉に——反転した。
最後に見えたのは、自分へ触れようと手を伸ばす舞。
そこで、御之の意識は闇に落ちた。
* * *
「あの儀式は、半分成功しとったんやと思う。」
御之は自分の右手を見つめた。
「怪物・ヤマタノオロチは顕現した。ただ、俺らが思っとった形とは違とった。」
花緒に見えるように、御之は指先で何かを摘まむような仕草をした。
「ほら、将棋の駒って裏表で一枚やろ。条件を満たすと、駒が別の駒に『成る』。飛車が龍になるみたいにな。」
その指先を、くるりと裏返す。
「俺らは、俺の体からヤマタノオロチが出てくる思とった。でも違った。あん時の感覚は、多分『成る』が一番近い。」
花緒は何も返せなかった。
御之は自嘲するように笑う。
「裏返っとる間のことは何も覚えてへん。俺の意識も感覚も、多分あの間は、この世のどこにも無い。せやから、あん時俺が何したんかも、何が起きたんかも。——舞ちゃんが、どうなったんかも……」
* * *
——雨の音がする。
頬を打つ大粒の雨で御之は目を覚ました。
身体の半分を泥水が浸している。
冷たい。
「……っ」
御之は水溜まりに手をつき、身体を起こした。
何が起きた。
どれくらい経った。
見上げると、祭場は崖ごと崩れてなくなっていた。
「……舞ちゃん?」
ぬかるみに足を取られながら立ち上がる。
返事がない。
「舞ちゃん?」
いない。
「——舞っ!!」
川に沿って駆け下りた。
何度も足を滑らせながら崩れた棚田を下り、舞の名前を呼び続ける。
なんだ、これは。
巨大な何かが暴れたように、辺りの岸壁が抉られている。
木々は薙ぎ倒され、増水した水は茶色く濁り、さっきまで細かった川の流れは別物のように膨れ上がっていた。
棚田の畦は完全に崩れ、水が斜面を好き勝手に走っている。
千切れた紙垂が泥に張りついていた。
割れた酒器が、水田の隅でゆらゆらと浮いている。
そして、
折れた木々の向こうに、赤い緋袴が見えた。
呼吸が止まる。
「舞っ!!」
小さな泉のようになった窪地に、舞はうつ伏せに倒れていた。
そのそばで、小さなお地蔵様が両手を合わせている。
「舞ちゃん!」
駆け寄り、抱き起こそうとして手が止まった。
硬い。
雨のせいだ。
ずっと水に浸かっていたからだ。
そう思って、もう一度抱え直す。
——片足がなかった。
赤黒い血が雨水に溶け出し、流れていく。
「……」
頭が理解することを拒んだ。
御之は何も見なかったことにして、舞の身体を抱き寄せた。
「……舞ちゃん、終わったで。」
雨が、陶器のような舞の頬を流れていく。
「舞ちゃん、帰ろ。」
水の流れる音がする。
雨と、泥と、血の匂いがした。
「……舞ちゃん?」
酷く、情けない声が出た。
*
それからのことは、ほとんど覚えていない。
思い出そうとしても、残っているのは途切れ途切れの景色だけだった。
雨の降る夜。
崩れた家屋の陰で、異形の赤い目がこちらを見ていた。
御之が右手を上げる。
足元から飛び出した黒蛇が巨大な顎を開き、その喉笛へ食らいついた。骨の砕ける音がして、動かなくなった異形をそのまま頭から呑み込んでいく。
木々の隙間から無数の目と、瘴気の蛇がこちらを窺っていた。目が合うと、一つ、また一つと闇の中へ消えていく。
弱い異形は御之を避けた。
千年京を満たす瘴気も感じない。
ただ、困ったことが一つあった。
自分を倒せる異形が、なかなかいなかったことだ。
ある日、路地の軒下に煙草の箱が落ちていた。
一本抜き取って唇に咥え、箱に入っていたライターを取り出す。
親指を滑らせる。二度は火花だけが散り、三度目で小さな火が灯った。
煙草の先端が赤くなる。
指先に、かすかな熱が触れた。
「……あったか」
白い煙が昇っていった。
それがいつだったのかも、覚えていない。
*
——その日は、夜のように暗い昼間だった。
足元にはまた異形が死んでいる。
袖の中へ戻っていく式神を眺めていると、右手の甲に黒い文字が浮かんだ。
ひとつ、またひとつ。
文字が皮膚を埋めていく。
何が条件だったのかはわからない。
一度目と同じ儀式をしたわけでもないのに、身体は勝手に条件を満たしたらしい。
腕を埋め尽くした一文字が、——ぱた、と裏返った。
今度は驚かなかった。
最後に思ったのは、煙草に火をつけたいなということだけだった。
*
次に感覚が戻った時、御之は風鳴りの音で目を覚ました。
赤い光が、ひらりと視界を横切る。
花弁。
……違う。炎だ。
暗い空を、彼岸花にも似た赤い炎が舞っている。
その花弁の向こうに、人が立っていた。
薄鼠色の着物。
抜き身の日本刀を持った、翁面の男。
——負けたのか。
何も覚えていない。
ただ、崩れた周囲の景色の中で、自分だけが泥の上に倒れていた。
男がゆっくりと顔へ手を伸ばし、白い翁の面を外した。
低く風が鳴る。
黒い前髪が揺れ、その向こうに、燃えるような赤い瞳が現れた。
若い、まだ幼さの残る男だった。
暗い天を背負い、赤い炎華の花弁が舞う。
地の底まで落ちた自分を、遥かな高みから見下ろしているみたいだった。
またひとひら、炎が御之の目の前を横切る。
——綺麗だ。
御之は、泥の上からその顔を見上げた。
ああ。
やっと終わる。




