第17話 「夢」
「えっ、お前んちそんな古いの!?」
大学三年の春、変な男子学生と知り合った。
大学近くの居酒屋で、たまたまゼミの飲み会が座敷の隣同士になったのだ。
明るい茶髪に、見るからにインドア文系な服装。
だが、酒の力かものすごいぐいぐいくる。
「まっじかぁ……やっぱ人って見かけによらねえなぁ……! な、どんな感じ!? 本とか何か残ってる!? 実家何県!?」
「いや、質問責めやん。」
這ってまで食いついてくる姿に思わず苦笑する。
普段なら絶対こんなことは話さない。
つい声をかけてしまったのは、そのグループの独特な雰囲気だった。
妖怪や呪術の話をしていたが、それを鵜呑みにして騒いでいる集団というより、現実の文化として分析していて、それが少し面白かったのだ。
それで、この男が卒論テーマに困っているとぼやいていたものだから、つい話しかけてしまった。
「蛇みたいなん彫った石とか。じじいが昔の古い本みたいなのとか大事にしとったな。俺はよう知らんけど。」
「うおおおおマジか!! な、な、今度見に行っていい!?」
目をきらきらさせる男の後ろ、壮年の教授とほんの僅か目が合う。
一瞬で全身を観察してくるような灰色の目。
「別にええけど、忙しゅうてしばらく帰る予定ないで。」
「全っ然待つよ! 帰る時連絡して! ほんっと迷惑かけないからさ!」
男は割り箸の袋に連絡先を書き込むと、勢いよく差し出してきた。
「俺、羽峰休 千助! 民俗学のゼミなんだ!」
*
「民俗学て、うちにそないなこと勉強する学科あったんやな」
その日の夜遅く。
御之は自宅のアパートで、教育実習に向けた準備と睨み合っていた。
座卓の向かいでは、舞が授業のレポートを書いている。
舞と付き合いだしてからというもの、舞はほぼ毎日、この部屋で寝泊まりしている。
「ん……? 民俗学、て何? 初めて聞いた。」
「俺もようわからん。なんや祭りとか伝承とかそういうの調べるらしいけど。」
「ふーん、オカルトなん?」
「オカルトとはちゃうみたいねんなぁ。人類学とか日本史に近そうっちゅーか、よう言えんけど。」
「ふーん……。つか今更知ったん? うちの大学、神職さんとか住職さんになるための学科もあるで。」
「へえ。」
「でも、ゆきくんの実家っておもろいねんな。」
「はあ?」
思わず手が止まる。
「どこがやねん。川入ったらあかんとか、酒飲んだらあかんとか、いらん生活制限ばっかやで。」
「ああ、それで酒飲まへんの? 一応気にしてんねんな。」
舞が気の毒そうに笑う。
「でも、昔からずっと残っとるおまじないねんやろ? せやったら、ご先祖さんが何か考えて残したはった大事なことっちゅーことやん。守っとけばええんとちゃう?」
「……舞ちゃん、んなこと言うタイプやったか?」
思わず顔をしかめる。
本当は、配偶者は神職の家から取らなければならないというルールもあったが、今は言えなかった。
「せやでぇ? 先人の教えとか、しきたりとか、そういうの大事にする古風な女やねん、うち。」
「古風なぁ……。あ、せや。教育実習中はさすがに練習休むからな。」
「えー? しゃあないなぁ。」
「しゃーないちゃうねん。子供の相手して舞ちゃんの相手までしとったら過労で殺されんねん。」
不満そうにむくれてから、吹き出す舞が可愛い。
最近気づいたのは……気の許せる相手と取り留めのないことを話す時間は……存外、悪くないということだ。
「せやけどまあ……子供は好きやけど、自分の子供はいらんかもな。」
「……そうなん?」
「だって生まれたら、あの家背負わなあかんやろ。」
声が重たくなる。
「うちの親、二人とも事故死やねん。そういうの多い家系でな、気味悪いやろ。俺で終わらせたらええねん、あんな家。」
「そっか……」
舞の視線がレポートに落ちる。
少し静かに手を動かしていたかと思うと、ころっと顔を上げた。
「でもええな。うちゆきくん先生向いとると思うで。」
「ほんまに思てへんやろ。」
「ほんまやって。教えるの上手いし、楽しそうやん。」
舞が頬杖をつく。
真剣な話をする時、舞はこうやって姿勢を崩す。
「今やから言うけどな、うち、ほんまはゆきくんに声かけるのめっちゃ緊張したんやで。」
舞が少し申し訳なさそうな顔になる。
「うちが前に組んどったあいつもな、うちが勝ちたい言うたら、最初は頑張ってくれとったんよ。でも、もともとうちだけの目標やったし、しんどそうなこと増えてきてな。」
「せやからゆきくんも、『舞ちゃんが言うなら』だけの人やったら、もうきっぱりやめよ思てた。」
頭の中に、初めて出会った時の舞の姿が蘇る。
今の舞の印象とは、だいぶかけ離れている。
「でも、ゆきくん凄い楽しそうにしてくれるし、一緒に勝ちにきてくれるし。せやからうち、凄いやりやすいし、今めっちゃ楽しいねんで。」
首を傾げ、ころっと舞が笑った。
胸の奥がじわっと熱くなる。
手を伸ばし、髪を指で撫ぜる。
「俺も舞ちゃん勝ったとこ見たいねん。」
「ふふ。でもそこや。ゆきくんのそういうとこが好きやねん。」
恥ずかしげもなく舞は言う。
「ゆきくんは、人の目標に本気になってくれる人やねんな。一緒に戦ってくれる人やねん。」
「いや、俺かて誰でも何でも協力するわけちゃうで。」
「知っとる。無理そうなことの方が燃えるんやろ?」
さすがにむず痒くなってきた。
まだ続くんかこの話、そろそろかゆ死ぬで。
「舞ちゃん」
「ん?」
「こっちおいで」
手を広げる。
言われると、舞はいそいそとやってきて上に乗ってくる。
「舞ちゃんあったか……」
頭を撫ぜると、舞の身体の力が溶けてくる。
肩に頭を寄せながら舞は笑う。
「ゆきくんが相棒やったら、何でも叶えられそうな気する。ゆきくんの生徒なら、東大でもハーバードでも、ホグワーツでも行けてまいそうや。」
心底信じてるみたいに舞は言う。
返す言葉が出てこないかわりに、御之は舞の首筋に顔を埋める。
「……ほな、魔法使いの勉強もせんとあかんな。」
抱きしめながら、ふと申し訳なさが押し寄せる。
「……舞ちゃん」
「ん……?」
「子供いらんとか言うてごめんな。」
舞の視線が向く気配がした。
息がくすりと笑う。
「ええねんで。ゆきくん、優しいもんな。」
*
大学三年になると、大会でも少しずつ勝てるようになっていた。
最初は二次予選を抜けただけで喜んでいたのが、秋には決勝も常連になっている。
廊下を歩けば、すれ違う選手から「ファントムだ。」と声を掛けられた。
「やばいな、うちら有名人やん!」
「調子乗んな、まだ優勝してへんぞ。」
「勝つ勝つ! 次は勝つで!」
誰も舞の顔をハンデだと思っていない。
後輩達は目を輝かせて舞を見ている。
それが嬉しかった。
……まあ、俺が一番こいつのことわかってんねんけど。
「ちょっと……!」
「ん?」
「だから、外でべたべたせんといてって!」
舞が腰に回していた手を引き剥がしてくる。
なんでやねん。
塾で教えている生徒にはこんな気分にならない。
他の講師に教わって成績が上がるなら嬉しいし、自分がいなくても出来るようになるならその方がいい。
なのに、舞に対してだけは少し違った。
「舞ちゃん、すっげえ良くなったね。」
「ほんまに!? 先輩に褒められるとめっちゃ嬉しい!」
そして大学四年、冬。
先輩から手を離し、舞が嬉しそうに跳ねる。
「へへ。最近昔より踊ってて怖ないねん。」
「いいじゃん。じゃあちょっとだけ振り回していい?」
先輩から差し出された手を、舞は当たり前のように取った。よりダイナミックに動かされても、舞は臆せずついていく。
——上手くなったな。
素直にそう思うが、胸が重い。
プロである先輩と自分の差は、たった二、三年の練習では当然埋まらない。
先輩には奥さんがいる。
十分な安心材料のはずなのに、舞があんな顔で笑うたび何の意味も持たないような気がしてくる。
「やっぱ先輩上手いなぁ。今度海外の大会出んねんて。」
「せやな。」
取り返すように舞の手を取る。
舞は何も知らない顔で、いつものように御之の前に立つ。
目が合わない。
「……なんか怒っとる?」
「別に。」
「……ならええけど。」
組んだ瞬間から舞の動きが大きい。
いつもより遠くへ行きたがる。
わかっているのに、御之は腕の中にその動きを押し込めた。
*
帰りの電車は、やはり気まずかった。
舞は隣に座っている。
いつもならすぐに寄りかかって寝るくせに、今日は大人しくじっと足元を見ている。
「……なあ」
「なに?」
「ゆきくん、先輩にヤキモチ妬いとるやろ?」
思わず舞を見る。
舞もこちらを見ていた。
「先輩のレッスン受けた後いっつもこうなるもん。」
「……」
しばらく黙ってから、御之は背もたれに身を預けた。
「……別にぃ。」
「ほらな。」
「なんやねん。」
「いや。それ図星の方の『別に』やん。」
舞は何故か嬉しそうに笑った。
「うちもまだ××大のあいつ嫌い。」
「は? まだ覚えてんの!?」
「スイパラ行こうとしとったし。」
「だから行ってへんやん。連絡も取ってへんし。」
「根に持つ女やもん、うち。」
舞がへっ、と鼻で笑う。
御之もつられて笑った。
二人でひとしきり笑うと、舞の肩がようやく御之の肩に触れる。
どちらともなく指を絡めて、固く握った。
「……もうすぐ終わるな」
「……せやな」
大学四年の冬、最後の大会。
オナーダンスで『オペラ座の怪人』を踊る。
ずっと先にあると思っていたものが、もう目の前まで来ている。
胸のつかえが抜けていくと、ふと、ずっと考えていたことが降りてきた。
「……なあ、舞ちゃん。タンゴのルーティン変えへん?」
「えっ?」
舞ががばっと身体を起こした。
驚いてはいるが、目は輝いている。
「今から!?」
「全部ちゃうよ。前半。」
「いやいやいや……間に合わんやろ!」
「間に合わせんねん。」
御之の頭の中ではもう動き始めていた。
練習は重ねてきたが、お互いずっと気持ちが乗っていない気はしていた。
その原因が、今のルーティンにあることにはなんとなく気づいていた。
それに、これまでに大会では二度優勝している。
他大学にも、ファントムと言えば遠都大の紫月と藤宮 舞で名前が通っていた。
「せやけど……。うーん、今のルーティン崩すの申し訳ないなぁ……。確実に勝つならこっちやし……」
「わかるけど、今のルーティンやりたいイメージとちゃうやろ?」
今のルーティンは、先輩に作ってもらったかなり攻撃的で勝ちを意識した振り付けだ。
確かに、そのお陰で優勝はできた。
でも、舞がやりたいファントムとは少しズレているとも思っていた。
「これで最後やん。舞ちゃんの好きなファントムで勝ちに行こうや。先生にも相談しよ。」
舞は黙り込んでいたが、意を決したように笑う。
さっきまでの湿っぽさが嘘みたいに、鞄からスマートフォンを取り出した。
「やりたいやつあんねん!」
「俺も。」
動画を開いて、二人で画面を覗き込んだ。
——翌日。
結局、ルーティンはほぼ丸ごと魔改造することになってしまった。
だが、もともと踊っていた振り付けのレベルが高かったこともあり、最初からそこそこの完成度で踊れた。
『いいね! 華やかだし、これなら勝てると思う!』
先輩から返事が届き、二人でホッとする。
だが、舞は不安そうに俯いた。
「こんな綺麗なルーティン、うちが踊ってええんかな。」
舞が苦笑する。
今ならわかる。
舞は顔の傷を克服したくて、強くてかっこいいファントムを演じることを選んだ。
でも舞は、「かっこいい」より、「可愛い」と言われた時の方がいい顔をするのだ。
だったら、俺が何度でも言えばいい。
「大丈夫や。俺と舞ちゃんが一番綺麗に見えるように作っとんねん。似合わんわけないやろ。」
舞が目を丸くする。
手を重ねる。
「こっちの方が強いし可愛いしかっこええ。お前、先輩の前でばっかクリスティーヌやっとって腹立つねん。俺の前でもそういうのやれや。」
ますます目を丸くし赤くなって、舞は吹き出した。
「……うける。」
「当たり前やん。」
手に力を込める。
「世界一えげつないファントム、やろうや。」
「……ゆきくんのそういうとこ、ほんま好き。」
舞がにいっとわらった。
「うん、これで行こう!」
——そして満を持して挑んだ冬。
最後の大会で事故が起こった。
一次予選の曲に「オペラ座の怪人」が流れたのだ。
頭の中が全部飛んだ。
コネクションが全て外れ、重心移動はバラバラのガタガタ。
体に染みついた記憶だけで踊り切り、フロアから出ても二人とも蒼白だった。
終わった。
同期に慰められ、後輩に気を遣われ、生きた心地がしないまま結果を待つ。
ようやく口がきけたのは、予選突破の張り出しを見た後だった。
「……」
「……」
フルチェック——審査員全員からチェックが入っているのを信じられない目で見て、どっと変な汗が出る。
「はは……まあ一次落ちはあらへんやろ……」
「いや、俺はかなり落ちた思たで……」
「な……落としに来たんかと思たわ……」
変な笑いが込み上げる。
だが、これだけ最悪晒してフルチェックなら、あとはもう、どうとでもなる。
全身のプレッシャーが抜ける。
汗だくの舞も、同じように頷いた。
そこから先は、ただただ解放的で楽しかった記憶しかない。
触れたところから力が繋がる。
どちらが動いたのかもわからないまま身体が滑り出した。
声援が胸を満たし、身体はどこまでも遠くへ伸びる。
早く、もう一曲踊りたい。
二次。
準決勝。
ずっと踊っていたいと思うのに、あんなに遠いと思っていた最後の舞台は、あっという間に来てしまった。
「背番号162番 紫月 御之、藤宮 舞組。遠都大学——!」
本当に、ただ、楽しかった。
*
——決勝が終わった。
御之は会場の廊下の隅で、壁に背を預けしゃがみ込んでいた。
目の前を、何人もの選手が行き交っている。
結果を喜ぶ声、悔しがる声、また次頑張ろうと励まし合う声。
終わってしまった。
次のレッスンは入れていない。
出る予定の大会もない。
がむしゃらに練習する理由も、わざわざ東京まで行く理由も、もうない。
腕の中は、からっぽだった。
「ゆきくん」
聞き慣れた声がした。
御之は顔を上げられなかった。
舞の声を聞いた瞬間、堪えていた涙が溢れる。
舞は少し黙ったあと、御之の前にしゃがんだ。
「ゆきくん、おおきにな。」
温かい手のひらが頭を撫でる。
「私と踊ってくれておおきに。いっぱいわがまま聞いてくれて、おおきに。」
「大好きや。ゆきくんがうちの一番や。」
「ゆきくんがいなかったら、今のうちはなかったで。」
顔を上げると、舞も目に涙を浮かべて笑っていた。
「だからゆきくん、これからもうちらで踊ろうな。」
御之が鼻を啜った。
舞が力強く肩を撫でる。
「ほら、うちら付き合うてんねんで! 大会終わっても終わりやないねんで!」
「ワルツもやろ。アマチュアの大会も出よ。ファントムも、教室のショーダンスでやらせてもらお。」
「またレッスン入れような。練習しような。東京も行こうな。ずーっと、ずーっと、老後の趣味まで踊ろうな。」
最後まで聞けなかった。
涙が溢れて、
御之は舞の腕を引いて、腕の中に抱きしめた。
温かい。
廊下の向こうで、何人も人が通り過ぎていく。
気まずいだろうとか、恥ずかしいとか、そんなこと全部どうでもよかった。
なんでもいい。
この子しかない。
この先の人生、もうこの子しかない。
「……愛してる」
舞の腕が背中に回る。
「うん。私も愛しとるよ」
「もう結婚したい」
「えっ、それ今言う?」
「舞ちゃんと結婚したい」
「うわーだめだめ! それはあかん聞かんかったことにする! うちお城でプロポーズがええもん!」
御之が思わず吹き出す。
そういえば、お金も時間も全部ダンスに注ぎ込んで、ろくなデートは殆どしていなかった。
「舞とどっか遊びに行きたいな……」
「ええな。旅行もいっぱいしような。うち水族館がええな。」
化粧が落ちないように、舞は唇に軽いキスをした。
目撃した他の選手達がイェーイ!と囃してくるのを、舞はガッツポーズで応える。
大きな拍手と、アナウンスの音が体育館から響いてくる。
もうすぐタンゴの結果発表だ。
「ほら、もう一回踊るで! 最後まで笑顔でな!」
「……おう。舞ちゃん、CD出しとかな。」
「あっ、今ロッカーに取りに行くところなんやった!」
「なんで!?」
「だって鍵つけとかな不安だったんやもん!」
舞が慌てて駆けていく。
「俺も行こか?」
「ううん、ゆきくん先行っとって!」
「呼ばれたらフロア出とるからな!」
手を挙げ、互いに背を向けて走り出す。
御之はフロアへ、舞は薄暗い廊下の先へ。
「あったあった……!」
ファントムのCDを掴み取り、舞はロッカーの扉を閉めた。
その先も、その先も。
二人で生きていける。
その時の俺達はそう、疑いもしていなかった。
——2028年、冬。
逢魔時まで、あと4ヶ月のことだった。




