番外編
世界が「人類絶滅級の神域」と恐れ、半径10キロを完全封鎖している静岡のダンジョン『落涙の騙し穴』。その最深部にあるマスターの居住区は、今、信じられないほど平和な空気に包まれていた。
「マスター、朝のご挨拶に上がりました。……って、また机の上で寝て! 睡眠の効率化を謳う割に、詰めが甘いです!」
バサバサと小気味良い音を立てて部屋に飛び込んできたのは、黒と紫の禍々しい装丁を施された一冊の魔導書――世界初のユニークモンスター、ミミ(アルマデル)だった。
……が、次の瞬間。
魔導書から黒い霧が立ち上ったかと思うと、それは一瞬にして、透と同年代の、黒髪に紫の瞳を持った少女の姿へと形を変えた。
進化によって得たスキル【偽造構築】。文字や紙の質感だけでなく、今や「人間の肉体や衣服」の質感、果ては匂いまで完璧に偽装し、臨時の肉体を作り出すことができるようになっていた。
「ん……。ああ、ミミか。もう朝か」
机に突っ伏していた透が、重い瞼を持ち上げる。
「もう朝か、ではありません! 30万DPもあるんですから、最高級のふかふかベッドを召喚すればいいのに、どうしていつもそうやってロジックの通らない不摂生をするんですか」
ふんす、と鼻を鳴らしながら、ミミは透の肩にブランケットをかける。見た目は可憐な少女だが、その中身は、あの国家の盾を一撃で消滅させた最凶の「偽書」だ。
「ベッドを置くと、睡眠の優先度が上がりすぎて次の階層の設計が遅れる。……それよりミミ、その服はどうした?」
透が目を細めて指摘する。ミミが【偽造構築】で身にまとっているのは、現代日本のどこからどう見ても、清楚なフリルがついた『エプロンドレス(メイド服)』だった。
「これですか? 【DMチャンネル】の『アパレル・家具スレ』で、京都のDMが『ガチャでSSRのメイド服引いたけど防衛に全く役に立たないから100DPで誰か買ってくれ』って泣きついていたので、マーケット経由で買い取って、構造をスキャンしたんです。マスターの身の回りのお世話をするなら、この服装が最も論理的に正しいかと!」
「……絶対に用途を勘違いしてるぞ、京都のDMも、お前も」
透が呆れ顔で頭を掻く。
世界中のDMたちが明日の生存を賭けて血眼で防衛線を築いている中、このダンジョンだけは、完全に資金の使い道が「豊かな暮らし」へとシフトしていた。
「さあマスター、朝食の準備ができています。我がダンジョンが誇る最高施設【魔農場(強化型)】で収穫した、ごく稀に状態異常を完全回復する『ハイクオリティ・トマト』を使ったオムレツです。地上なら数百万で取引される逸品ですよ」
「贅沢なオムレツだな」
二人は並んでテーブルにつき、誰も入ってこない静かな空間で朝食を摂り始める。
ふと、透が手元の端末(システム画面)を開くと、2ch風掲示板の通知が鳴り響いた。
『【悲報】東京DM(1太夫)、自衛隊の第3波突入に耐えかねてついに土下座』
『1太夫:誰か!! マジで誰か助けてくれ!! 静岡の「名無し」さん!! あなたの不要な魔物を僕に恵んでください!! 10万DPでも買いますからぁぁ!!』
相変わらずの阿鼻叫喚。それを見ながら、ミミはオムレツをもぐもぐと食べつつ、少し呆れたように口を開く。
「東京のDMさんは、本当に学習能力がありませんね。マスター、またガチャのハズレを高く売りつけてあげますか?」
「いや、今は資金が潤沢だからな。あんまり市場のインフレを煽るとシステム側に規制されるリスクがある。……今は泳がせておこう」
冷徹な計算を口にする透だが、その表情は以前の孤独な戦いの中にいた頃よりも、どこか柔らかい。
地上では志摩一課長が「黒崎透をどう包囲するか」と徹夜で書類の山と格闘していることなど露知らず、不可侵の迷宮では、今日も穏やかで、ちょっと贅沢な日常の時間が流れていくのだった。




