10話
「――うわあ、なんだこれ……天国かよ……」
世界が『人類絶滅級・不可侵迷宮』と恐れ、半径十キロを完全封鎖している静岡のダンジョン『落涙の騙し穴』の地下第3層。
東京のブラックな探索者ギルドに買い叩かれ、心身ともにボロボロになっていたEランクの若手冒険者、佐藤は、目の前に広がる光景に涙を流していた。
彼ら3人組は、政府の厳重な封鎖線の隙間を縫って、命がけでこのダンジョンへ「密入国(突入)」してきたのだ。ネットの都市伝説で囁かれていた『静岡のS級ダンジョンからは、精神を極限まで癒やす魔力の波動が出ている』という噂に、最後の博打を賭けて。
しかし、彼らを待っていたのは、凶悪な魔物の爪牙でも、底に針が敷き詰められた落とし穴でもなかった。
「お疲れ様でございます、旅の御方。遠路はるばる当館へようこそ。まずはそちらの露天風呂で、旅の疲れをお癒やしくださいな」
温かな「温泉の湯気」と心地よい波の音が響く和風の庭園で、彼らを出迎えたのは、可憐な和服の仲居姿になったミミだった。
「ひ、人型のユニークモンスター……!? いや、それよりあの温泉、信じられないほどの回復魔力が漂ってるぞ……!」
「もうどうにでもなれ! 殺されるなら、あの湯に浸かってからだ!」
極限状態だった彼らは、警戒心すら忘れて衣服を剥ぎ取り、青く澄んだ海を一望できる魔界の温泉(おいでやす製データ)へとドボンと飛び込んだ。
「はぁぁぁあ……生き返る……」
「ギルドのノルマも、地上のステータス格差も、全部どうでもよくなるな、これ……」
湯に浸かり、京都の老舗旅館直伝の最高級懐石料理を貪り食い、シルクのように滑らかな布団に横たわる若者たち。
彼らの精神が完全に安定し、これ以上ない「歓喜」と「幸福」に満たされたその瞬間、最深部の玉座にいる透の網膜に、驚異的なシステムログが走り始めた。
『侵入者の精神状態:【極上の歓喜】を検知』
『ダンジョン滞在DP:通常の3倍(歓喜補正)が適用されます』
『チャリン……チャリン……チャリン……』
リアルタイムで爆発的に加算されていくDP。
死なせるのは一度きり(1,000DP)だが、このままこのリゾートエリアに引きこもらせておけば、彼らは毎日数千DPを「平和的に、かつ永久に」生み出し続ける。
「おいでやすさんの言う通りだな。戦わず、生かさず殺さず、ただ『極上の贅沢』で骨抜きにする。これ以上の効率はない」
湯上がりの透は、ミミが注いでくれた冷たい牛乳(を模した高級回復飲料)を飲みながら不敵に微笑んだ。その横で、ミミの頭上にある『隠し進化ゲージ』が、かつてない勢いで跳ね上がり、ついに90%を突破して金色の紋章を刻み始めていた。
◇
一方、その頃。地上の自衛隊作戦本部テント。
「――バカな、そんなことがあってたまるか……!」
ダンジョン対策庁の第一情報分析課長、志摩一課長は、モニターに表示された密入国者3人のバイタルデータを見て、顔面蒼白のまま激しく机を叩いた。
「志摩くん、一体どうしたんだ!?」
「連隊長……見てください、このデータを。静岡のS級ダンジョンに密入国した探索者3人のGPS信号が、第3層に到達した瞬間から、完全に一歩も動かなくなりました。衣服の摩擦音すら検知できない、完全な不動状態です」
志摩はガタガタと震える手で眼鏡をクイと上げ、血走った目でモニターの波形を指し示した。
「さらに恐ろしいのは彼らの精神波(脳波)です。異常なまでの高揚感と、現実逃避を示す脳内麻薬が最大値を突破している。……つまり彼らは、戦闘の暇すら与えられず、一瞬で肉体を麻痺させられ、精神を完全に洗脳されて『生きた屍(肉壁)』にされたのです……! 静岡のS級マスター、なんという冷酷で悪魔的な手際だ……!」
実際には、若者たちが「この枕、最高……」とヨダレを垂らして熟睡しているだけである。志摩の天才すぎるプロファイリングは、今回も完璧に地獄の底へと空回っていた。
◇
迷宮の最深部。
裏同盟チャット【47】では、東京の1太夫や大阪のコンサルDMたちが、今も自衛隊の猛攻に血を吐きながら必死に防衛戦を繰り広げている。
それを横目に、透の口座には何もしなくても、チャットをしているだけで勝手に莫大なDPが振り込まれ続けていた。
「戦わずに勝つ。これぞ究極のチェックメイトだな、ミミ」
「はい、マスター! これぞおもてなしの因果改ざんです!」
世界から最も恐れられる『S級・絶滅迷宮』は、人類で最も甘美な『密入国限定の隠れ家リゾート』として、今日も地上を恐怖に陥れたまま、平和に営業を続けるのだった。




