二 鉄格子
朝、と呼んでいいのかどうか、わからなかった。
明かりが来たから、朝なのだ。
階段の上で扉が鳴り、足音が降りてきた。揺れる光が、石段をひとつずつなめるように近づいてくる。ひと晩の闇のあとでは、ランタンの火ひとつがまぶしかった。
光が、牢の中に差しこんだ。
まず、壁が見えた。
ゆうべ指でなぞった線が、そこにあった。肩の高さから腰の高さまで、石の面を埋めつくしている。暗闇で数えたときより、ずっと多く見えた。数は変わらないはずなのに。
それから、男が見えた。
奥の隅で、壁にもたれて座っている。四十を過ぎたくらいだろうか。伸び放題の髪とひげ。頬がこけて、首すじに骨が浮いている。左の足首に鉄の輪がはまり、そこから壁の金具へ、鎖がのびていた。
目だけが、妙に明るかった。
面白がっているような目だった。こんな場所で、何を面白がることがあるのかと思うような。
「やあ」ヴァイスが言った。「顔を見るのは、はじめてだね」
ネージュが、小さく頭を下げた。アッシュは、下げなかった。
横で、ネージュの顔も見えた。頬に、乾いた涙のあとが白く残っていた。アッシュは、見なかったことにした。自分の顔も、たぶん同じだった。
看守は、片耳の欠けた大男だった。
鉄格子の下の差し入れ口から、木の器をみっつ、足で押しこんでくる。薄いかゆが、縁からこぼれた。みっつ目は、押しこむついでに蹴られて、横倒しになった。ネージュの前だった。
かゆが、石の床に広がっていく。
看守は、手にした紙きれに目を落とした。
「第二種、レイドルフ。フォンティーヌ」
読み上げて、それから、もう一度読んだ。
「……レイドルフ?」
看守の顔が、ゆっくりとアッシュのほうを向いた。ランタンの光が、下から顔を照らしている。
「ああ。宮廷の、火の魔法使いの」
何かを思い出している顔だった。楽しい思い出を。
「見てたぜ、広場で。いちばん前でな」
アッシュの背中が、固くなった。
「あいつ、最後まで何もしなかった。火の粉ひとつ出さねえで、黙って首を差し出した。宮廷でいちばんの火の使い手だっていうから、何をやらかすかと思って見てたのによ。拍子抜けしたもんさ」
看守は笑った。
「魔法使いなんてのは、そんなもんだ」
そう言って背を向け、階段のほうへ歩きだした。ランタンの光が遠ざかっていく。
アッシュは、動かなかった。
動けなかったのではない。体の中で何かが、動く順番を待っていた。
足音が、石段を上がっていく。ひとつ。ふたつ。
アッシュは、鉄格子をつかんだ。
両手で。
封じ環が、手首で鳴った。熱は外へ抜けない。抜けない熱が、環の内側でふくれ上がる。
けれど、手のひらは、鉄に触れていた。
触れているところから、熱が流れこんだ。
鉄格子が、低くうなった。
つかんだ二本の鉄棒が、黒から、にぶい赤へ変わっていく。遠ざかるランタンより、その赤のほうが明るくなった。焼けた鉄の匂いがした。
「アッシュ」
ネージュの声がした。
「アッシュ。三秒待って」
聞こえていた。聞こえていたが、待てなかった。三秒のあいだに、父の首が落ちる。何度でも落ちる。黙って差し出された首が、何度でも。
赤が、だいだい色に変わった。鉄棒が、つかんだところから、わずかにしなった。手首の環が皮膚に食いこみ、肉の焼ける匂いがまじった。
焼けているのは、手首だけだった。熱を送り出している手のひらは、焼けない。自分の熱が自分を焼くのは、行き場をなくしたときだけだ。環の内側で、熱は、行き場をなくしていた。
白い手が、アッシュの手のすぐ上で、同じ鉄をつかんだ。
霜が、走った。
ネージュの指先から、白いものが鉄をつたって広がっていく。アッシュの指のあいだにまで、霜が回りこんでくる。だいだい色が赤に、赤が黒に戻っていく。熱と冷たさがぶつかったところから、湯気が噴き上がった。焼けた石に水をかけたような音がした。
そして。
ぴし、と。
乾いた音が、鉄の中から聞こえた。
階段の上で、足音が止まった。
「……おい」
ランタンの光が、こちらへ振り返った。
「何の音だ」
アッシュの手は、まだ鉄格子にかかっていた。ネージュの手も。白い湯気が、ふたりの顔の前をただよっている。光が階段を降りてくれば、全部見える。
「水ですよ、だんな」
のんびりした声がした。ヴァイスだった。壁にもたれたまま、あくびまじりに言った。
「上の水路が、また漏れてるんです。焼けた石に水をかけたみたいな音がするでしょう。ゆうべもしてた。そのうち、天井ごと落ちてきますよ」
光が、しばらく止まっていた。
「……ちっ。あとで見る」
足音が、また上がっていった。扉の閉まる音がした。
闇が戻った。
鉄格子の赤だけが、しばらくぼんやりと残っていた。やがて、それも消えた。
◇
アッシュは、鉄格子から手を離した。離したというより、指がほどけた。そのまま床に座りこんだ。
手首が、焼けていた。きのうの火傷の上に、新しい火傷が重なっている。
冷たいものが、そこに触れた。
ネージュの指だった。霜のついた指先が、焼けた皮膚の上に、そっと置かれる。
「……痛い?」
「痛くない」
「うそ」
アッシュは答えなかった。ネージュの指は、いつもより冷たかった。自分を冷やしすぎている。わかっていたが、振りほどけなかった。
「父上は」
声が、かすれた。
「なんで、何もしなかったんだ」
ネージュは答えなかった。答えを持っていないことを、ごまかさなかった。ただ、指を離さなかった。
――灼くより消すほうが難しい。
父の声がした。六歳のとき、暖炉の前で聞いた声だ。
――難しいほうを、先に覚えろ。
消すって、何をだ。アッシュは思った。広場で黙って首を差し出すことが、消すことなのか。
わからなかった。
闇の奥で、鎖が鳴った。
「……封じ環をはめたまま鉄を赤くした人間を、僕ははじめて見たよ」
ヴァイスの声は、静かだった。
「封じ環は、魔法を飛ばすのを止める道具だ。止められた熱は、環にたまる。……ただ、じかに触れているものへ流れこむぶんまでは、止めきれない。それでも、ふつうの魔法使いなら、鉄をぬるくするのがやっとだ」
鎖が、もう一度鳴った。
「それから、さっきの音。聞いたかい」
ネージュが顔を上げた。
「熱くした鉄を急に冷やすと、ああいう音がする。鉄が、自分の中で引っぱり合って、割れるんだ」
ネージュは、手探りで鉄格子に触れた。さっきつかんだあたりを、指でたどる。
細い、ほんとうに細い筋が、指先に引っかかった。
ネージュは何も言わなかった。ただ、その場所を指で覚えた。
「……話そう」
ヴァイスが言った。
「いや、話させてくれ。君たちになら、話せる」
息を吸う音がした。ゆうべ最初に聞いた、あの吸い方だった。
「僕たちが、この国を終わらせた話だ」




