三 六年前の夜
「オルトレインという名を、聞いたことはあるかい」
ネージュが、息を止めた。
「……召喚の、オルトレイン家。学府の教科書に出てきます。オルトレイン式の錨。三章の、半分くらい」
「三章は、当主が書いた」
ヴァイスは、少し笑ったようだった。
「僕は、その一門の、いちばん下の席にいた。記録係だよ。ランプを持って壁ぎわに立ち、見たことを書く。それが仕事だった」
記録、という言葉で、アッシュはミュラの顔を思い出した。すぐに振り払った。
「六年前の、秋のはじめだった」
◇
オルトレイン家の屋敷の地下には、円い広間があった。
床いっぱいに、銀を埋めこんだ大きな陣が描かれている。一門が三代かけて彫り足してきたものだ。ランプの光を受けて、銀の線が水面のように光っていた。
その夜、陣のまわりには七人が立っていた。
当主のベルトラム。白い髪の、いかめしい男だ。一門の上の席の魔法使いが、五人。それから、いちばん若い弟子のリタ。十四歳の少女だった。
リタは、ヴァイスの字をよくからかった。記録係なのに、字がへたですね、と。そのくせ、夜中まで写し物をしていると、温かい飲み物を持ってきてくれた。
その夜も、陣に入る前に、ヴァイスの横へ来て言った。
「向こうが見えたら、いちばんに教えてあげます。ヴァイスさんは、壁ぎわで見えないでしょうから」
ヴァイスは八人目だった。数に入れるなら、の話だ。壁ぎわで、ランプと帳面を持っていた。
「深いところを見る」
始める前に、当主はそう言った。
「浅いところの小物は、もういい。王家が欲しがっているのは、目に見える成果だ。向こうの、もっと深いところにいるものを、ひと目でいい、見る」
反対した者がいたことを、ヴァイスは知っていた。ひと月前、宮廷で開かれた話し合いの席で、ある人が当主と激しく言い争った。その記録を取ったのも、ヴァイスだった。
だが、その夜の広間に、反対する者はいなかった。
陣の真ん中には、銀の錨が置かれていた。
手のひらほどの大きさで、先が鉤のように曲がっている。門が開けば、錨は向こう側へ落ちていき、どこかに引っかかる。そうやって、門の口を向こう側でつなぎとめておくのだ。錨がなければ、門は開いたそばから、ずれて閉じてしまう。
錨には、細い銀の鎖がつないであった。鎖は陣の線をまたいで外へのび、余りはリタの足もとに巻いて置いてある。端は、床に打ちこんだ鉄の輪に留めてあった。
リタは、その鎖を両手で握っていた。錨は、鎖を握る者の魔力で生きている。そして握る者は、鎖ごしに、向こうの気配を感じ取る。一門でいちばん「手」のいい者の役目だった。
リタの手は、一門でいちばんよかった。
詠唱が始まった。
六人の声が重なり、陣の銀が端から順に光りはじめた。光は線をたどって中心へ集まり、そこで、空気に切れ目を入れた。
門が、開いた。
切れ目は、錨の真上で口を開けた。錨は音もなく、その中へ落ちていった。リタの手の中を、銀の鎖がするすると走っていく。足もとに巻いてあった鎖が、みるみるほどけていく。
半分ほどほどけたところで、鎖が止まった。向こうのどこかに、錨がかかったのだ。
ヴァイスは、帳面に時刻を書いた。手が震えて、字がゆがんだ。
門の向こうは、暗かった。
夜の暗さではない。深い水の底をのぞいたような暗さだった。そして、音がなかった。風の音も、何かが動く音も。こちら側の音まで、門に吸いこまれていくようだった。自分の息の音が、聞こえなかった。
「……深い」
当主がつぶやいた。喜んでいる声だった。
リタは、鎖を握ったまま目を閉じていた。鎖ごしに、向こうを聞いているのだ。
「何か、います」
リタが言った。
声が、少し上ずっていた。こわがっているのではない。はじめて見るものに、胸を高鳴らせている声だった。
鎖が、張った。
「引っぱられて――」
「離せ!」
当主が叫んだ。
リタは、離さなかった。
鎖を離せば、錨は魔力を失って、ただの銀のかたまりになる。支えをなくした門が、どうなるかはわからない。一門の者なら、誰でもそう習う。リタは、習ったとおりにした。いちばん若くて、いちばんまじめな弟子だった。
鎖が、もう一度張った。さっきより、ずっと強く。
鎖を握ったまま、リタの体が陣の上をすべった。門のほうへ。
次の瞬間、鎖はたるんでいた。
リタは、いなかった。
誰も、動けなかった。
床に残った鎖が、ゆっくりと門のほうへ引かれていく。誰も引いていないのに。リタが立っていたところに巻いてあった残りが、最後のひと巻きまでほどけた。
がちん、と鉄の輪が鳴った。
鎖が、門へ向かってまっすぐに張った。
その鎖をつたって、何かが出てきた。
はじめに見えたのは、手だった。手だと思った。指が、多すぎた。白く、細く、関節がひとつ多かった。その手が門のふちをつかみ、体を引き上げた。
頭が見えた。
目は、なかった。なのに、見られているとわかった。
それが門をくぐりきったとき、背後で門が閉じた。音もなく。ひとつ通したところで、重さに耐えきれなくなったように。
床の鎖は、門のあったところで、刃物で断ったように切れていた。その先は、どこにもなかった。
広間に、それが立っていた。
ひとつだけ。
当主が、最初に動いた。
炎が走った。王国でも五本の指に入ると言われた、オルトレインの当主の炎だ。それが、まっすぐに当たった。
炎は、それの表面をなでて、消えた。
焦げ跡ひとつ、残らなかった。
五人が続いた。雷が、風の刃が、石の槍が、それに当たった。何も起きなかった。
それは、首をかしげた。
鳥が、地面の虫を見るときのような角度だった。顔のない頭を、ひとりずつ、ゆっくりと向けていく。値踏みするように。数えるように。
いちばん強い者から、順番に。
そして、動いた。
悲鳴は、思ったより短かった。
◇
ヴァイスは、ランプを吹き消した。
帳面を抱いて、記録棚の陰にうずくまった。陣の銀だけが、まだかすかに光っていた。その光の中で何が起きているのか、見ないようにした。見なくても、音でわかった。
音がやんだとき、広間には、それだけが立っていた。
それが、こちらを向いた。
ヴァイスは息を止めた。止めた息が、胸の中で暴れた。暗闇の中で、顔のない頭が、まっすぐ記録棚のほうを向いている。
首が、かしいだ。
それから、ゆっくりと、別のほうへ向いた。
――数に、入らなかったのだ。
あとになって、ヴァイスはそう考えるようになった。あれは、目で見ていたのではない。魔力を見ていた。一門でいちばん魔力の弱い記録係は、あれにとって、壁のしみと変わらなかった。
弱すぎて、殺されなかった。
それは、当主の体のそばに立っていた。
長いあいだ、動かなかった。見下ろしている、ように見えた。やがて、白い手が伸びて、当主の顔に触れた。
音がした。布を裂くような、骨を折るような、そのどちらでもない音だった。
陣の残り光の中で、何かが立ち上がった。
当主だった。
白い髪。深いしわ。見慣れた、いかめしい顔。当主のベルトラムが、傷ひとつない姿で、そこに立っていた。
その足もとに、当主が倒れていた。
当主が、ふたりいた。




