四 夜が明けてから
立っているほうの当主は、自分の手を見ていた。
指を開いて、閉じた。一本ずつ、数えるように。それから口を開け、閉じた。頬を動かした。手に入れたばかりの顔の使い方を、確かめているようだった。
やがて、倒れているほうの当主を持ち上げた。軽々と。そして、陣の奥の暗がりへ引きずっていった。
そこから先を、ヴァイスは見ていない。
目を閉じていた。
音だけを、聞いた。
夜が明けるまで、長い音だった。
◇
牢の中で、水が落ちた。
ヴァイスは、しばらく黙っていた。アッシュも、ネージュも、何も言わなかった。言えることが、何もなかった。
「朝になって、僕は、使用人の通路から逃げた」
ヴァイスが言った。声が、少しかれていた。
「帳面は、置いてきた。……あとで知ったよ。その日のうちに当主が、一門の記録をすべて焼かせた。事故の後始末として」
「事故」ネージュが言った。
「そう。事故だ」
乾いた笑いが、声にまじった。
「その日の昼、当主は宮廷へ出向いて、こう届け出た。深いところをのぞく試みの最中に、未熟な弟子が錨を扱いそこねた。門が暴れて、一門の六名と、記録係一名が死んだ、と」
「記録係も」
「死んだことになった。僕は」
鎖が鳴った。
「僕は、宮廷の門の前の人ごみにまぎれて、それを見ていた。当主が馬車から降りてくるところを。見慣れた顔だった。歩き方も、声も、当主そのものだった。……ただ、門番に呼び止められたとき、首をかしげた」
ネージュが、小さく息を吸った。
「あの角度で」
誰も、それ以上は聞かなかった。
「言えなかった」
ヴァイスは言った。
「一門でいちばん下の記録係が、宮廷の門の前で叫ぶんだ。当主は化け物に殺された、あそこにいるのは化け物だ、と。……誰が信じる? 当主は、目の前に立っているのに」
だから、黙った。
名前を捨てて、港へ流れ、荷を担いだ。魔法が使えないふりをした。ふりをするまでもなかった、とヴァイスは言った。もともと、ないのと大差ない魔力だったから。
当主の顔をしたものは、宮廷に通った。
魔法院の書庫に、毎日のように出入りしていた。港の荷運びにも、それくらいのうわさは届く。オルトレインの当主は、事故のあと、人が変わったように勉強熱心になった、と。
「言葉を覚えていたんだと思う。この国のことを。……誰が強くて、誰が弱いかを」
魔法院の書庫には、王国じゅうの魔法使いの名簿がある。名前と、家と、魔力の強さ。
「それから、あれは採石場を見て回るようになった。鉱山もね」
なぜ港にいてそれを知っているのか、とアッシュが聞く前に、ヴァイスは続けた。
「採石場の石は、荷車で港へ運ばれてくる。荷を下ろしながら、運んできた男たちがしゃべるんだ。オルトレインの当主さまが、わざわざ石切り場までおいでになった、とね。……この国の、いちばん下の人たちが働いているところにだ」
少し、間があった。
「魔力がないというだけで、石を運ばされている人たちだ。一日じゅう石を運んでいれば、体は強くなる。……そして、恨みもたまる」
アッシュは、ドルクの横顔を思い出した。一日に石を六十。運べなければ飯が減る。
「半年たった春に、当主は病で死んだことになった」
「ことに、なった」
「ひつぎは、閉じたまま葬られた。……同じ月に、採石場に、ひとりの男が流れてきた」
ヴァイスは、その名前を口にした。
「ゼド」
牢の中が、静かになった。
荷車の上で聞いた名前だった。蜂起の先頭に立った男。いまの皇帝。
「どこから来たのか、誰も知らなかった。ガレイドという村の生まれだと言った。領主に焼かれた村だ、と」
「ガレイド」ネージュが言った。「……帝国の名前」
「そう。国の名前になった村だ」
ヴァイスは、少し間をおいた。
「ガレイドという村は、どの地図にも載っていない。僕はオルトレインの書庫で、王国じゅうの地図を見て育った。どこにもなかった。……焼かれた村、ということになっている。焼かれた村なら、誰も確かめに行けない」
ゼドの話も、同じ荷車の男たちから聞いた、とヴァイスは言った。
ゼドは強かったという。ふたりがかりで運ぶ石を、ひとりで担いだ。監督に殴られても倒れなかった。怒鳴り返しもしなかった。
ただ、首をかしげて、監督を見た。
鳥みたいだった、と男たちは笑った。気味が悪かった、と。
「それを聞いたとき、僕は、担いでいた荷を落としたよ」
「ある晩、ゼドは、採石場の監督に一本の剣を渡した」
ヴァイスは言った。
「王家の武器庫の剣だ。どこから持ってきたのか、誰も聞かなかった。……いまでは、帝都の子どもでも知っている話だよ。最初の剣、と呼ばれている。剣を渡された監督の名前は、ガルシュ」
アッシュの息が、止まった。
処刑を仕切った男。いまの騎士団長。字も読めなかったという、採石場の監督。
「最初の一本を下げて、ガルシュは採石場の見張り小屋へ行った」
「……見張りのところへ、剣一本で?」
アッシュは聞き返した。見張りが魔法を使えば、剣一本など、届く前に終わる。
答えたのは、ネージュだった。
「見張りは、魔法使いじゃないもの」
静かな声だった。
「魔法使いは、石切り場の見張りなんかしない。……父の領地でも、そうだった。小さいころ、馬車の窓から見たことがある。見張りに立っていたのは、剣を下げた、魔力のない人たちだった。同じ魔力のない人たちを、見張ってた」
闇の奥で、ヴァイスがうなずいた気配がした。
「砦も同じだよ。魔法使いは、数が少ない。少ないから、剣を持たせた者に囲ませて守る。……この国の剣は、魔法使いが振るうものじゃなかった。魔法使いを守るために、魔力のない者に持たせるものだった」
ネージュが、はっと顔を上げた。
「……じゃあ、見張りの人たちは」
「そう。ガルシュと同じ、魔力のない者だった」
ヴァイスは言った。
「見張り小屋では、斬り合いはほとんど起きなかったそうだ。見張りの半分は、剣を下げたまま、ガルシュの後ろについた。……剣なら、とっくに持っていたんだよ。足りなかったのは、最初に向きを変える一人だけだった」
最初の剣、とヴァイスはもう一度言った。
「剣が一本、足りなかったわけじゃない。あれは、最初の一人を作るための剣だったんだ」
鎖が、かすかに鳴った。
「ついてこなかった見張りもいた。その人たちの剣も、結局は向きを変えた。持ち主が替わってね」
ヴァイスは、淡々と数えた。
「見張り小屋を出るとき、剣は十本になっていた。十本で、街道の砦へ行った。砦の門を内側から開けたのは、中にいた兵だった。剣は百本になった。どこに砦があって、誰が門を守っているのか、ゼドは全部知っていた。当主の顔で、王国の記録を読んでいたんだから」
「王都も、か」
アッシュの声が、かすれた。
「王都も、だ。宮廷の魔法師団は戦った。けれど、まわりを守っているはずの剣が、みんな向きを変えていた」
アッシュは、父の背中を思い浮かべた。杖を構えた父のまわりで、味方だったはずの剣が、一本残らずこちらを向いている。
「……剣が剣を呼んで、その年の十一月に、国が倒れた」
五年前の、十一月。
「僕はそれを、港で見ていた。荷物を担いだまま」
王都の方角の空が、ひと晩じゅう赤かった、とヴァイスは言った。鐘が鳴っていた。どの塔の鐘も、決まった間もなく、めちゃくちゃに。
「鐘の鳴らし方で、国が終わるのがわかることもあるんだと、あのとき知ったよ」
◇
アッシュが、低い声で言った。
「……お前たちが、開けたんだな」
ヴァイスは、ごまかさなかった。
「そうだ」
「あの門を。お前たちが」
「そうだ。僕たちが開けた」
アッシュのこぶしが、床を打った。石が鳴った。環が鳴った。焼けた手首に響いて、アッシュは歯を食いしばった。
ヴァイスは、何も言わなかった。殴られるのを待っているようにも思えた。
やがて、ヴァイスが言った。
「君の父上は、反対していた」
アッシュが、顔を上げた。何も見えない闇の中で。
「ひと月前の話し合いで、当主と言い争ったのは、宮廷魔法師団長だった。深いところは、のぞくだけで、向こうにのぞき返される。……そう言って、最後まで反対した。僕はその席で記録を取っていた。一字残らず、覚えている」
「……父上が」
「当主は、師団長を臆病者と呼んだ。王家は、当主のほうを選んだ」
アッシュは、何も言えなかった。
灼くより消すほうが難しい、と父は言った。火を消すことを、先に覚えろと。
その父は、火がつく前に、消そうとしていたのだ。
そして、誰にも聞いてもらえなかった。
ネージュは、黙っていた。
黙って、別のことを考えていた。
採石場の斜面。一日に六十の石。父親を鉱山へ送る署名をした役人の名前を、いまでも言える男。
あれは、門のせいでできたものではない。門が開くずっと前から、あそこにあった。
油は、とっくにまかれていたのだ。あれは、そこに火を落としただけだ。
ネージュは、それを口に出さなかった。いまのアッシュに言うことではない、と思った。
いつかは言わなければならない。それも、わかっていた。




