五 答え合わせ
「確かめさせて」
ネージュが言った。
声が、学府の図書室にいるときの声に戻っていた。試験の前の晩に、ふたりで問題を出し合ったときの声だ。
「アッシュも手伝って」
「……何を」
「答え合わせ。この人の話と、私たちが習ったこと。合わないところがあったら、この人はうそをついてる」
闇の奥で、ヴァイスが小さく笑った。
「どうぞ。好きなだけ」
「深いところに門をつなぐには、魔力がどれくらい要る?」
アッシュは、焼けた手首をひざにのせたまま目を閉じた。頭の中に、学府の黒板が浮かぶ。
「浅いところの三十倍。……宮廷魔法師団長くらいの魔法使いが、最低でも五人」
「オルトレインの上の席の人は、何人いたんですか」
「当主を入れて、六人」とヴァイスが答えた。
「足りる」ネージュが言った。「ぎりぎりだけど」
「次。錨が切れた門は、どうなる?」
「向こうから来る最初の重さで、閉じる」アッシュが言った。「支えをなくした門は、ひとつ通したら持たない。……それで、一体だけか」
「ひとつだけ、だった」ヴァイスが言った。「門は、あれが通りきったところで閉じた」
「合ってる」
ネージュは、少し考えた。
「当主の炎が、効かなかったって言いましたね」
「焦げ跡ひとつ」
「深いところのものは、こっちの熱や冷たさを、そのままは受けない。……教科書の、いちばん最後の注釈」
「そんなとこまで覚えてるのかよ」
「覚えてる。深いところのものが、こっちで倒されたっていう記録は、ひとつもなかった。先生は、来たことがないからだって言ってたけど」
来たのだ。一体だけ。
「いちばん、信じたくないところ」
ネージュの声が、少し低くなった。
「顔を、写したところ」
「写し身、だろ」アッシュが言った。「深いところのものは、見て、触れたものの形を写す。……でも、あれは伝説だって」
「伝説の出どころ、覚えてる?」
アッシュは黙った。覚えていた。
写し身の話は、どれも同じところから来ていた。深いところをのぞいた者たちの記録だ。のぞいた者が書き残した、最後の何ページかから。
「……その記録って、いつも途中で終わってたよな」
「うん」
「書いたやつがどうなったのか、どこにも書いてなかった」
「うん」
水が、落ちた。
「もうひとつ」とネージュは言った。「荷車で、兵隊が話してたの。皇帝が、月に何頭も馬を欲しがってる。馬小屋に入って、出てこないって」
ヴァイスは、すぐには答えなかった。
鎖が、一度だけ鳴った。
「……よく食うんだよ。あれは」
それだけだった。
荷車の上で、ネージュは頭の中に年表を組んだ。そのとき、ひとつだけ年表の外に置いた話があった。置き場所がわからなかった話だ。
置き場所が、見つかってしまった。
「それなら」アッシュが言った。「どうして、仲間を呼ばないんだ。向こうには、あれと同じようなのが、まだいるんだろ」
「呼べないのかもしれない」ネージュが言った。「呼び手は、こちら側の者でないといけない。……向こうのものが、自分で門を開いたっていう記録はない」
「呼べたとしても」
ヴァイスが、闇の奥で言った。
「僕は、呼ばないと思う。……ここでは、あれがいちばん強い。仲間が来たら、いちばんじゃなくなる」
アッシュは黙った。
ひとりで来て、ひとりで国を食った。ひとりのまま、いちばんでいたいのだ。
「最後。手配書」
ネージュの声が、わずかに揺れた。
「どうして、私たちだったんですか」
ヴァイスは、ゆっくりと答えた。
「採石場の男たちは、海の向こうにいる子どものことなんか知らない。知っていて、しかも恐れる理由があるのは、魔法院の名簿を読んだ者だけだ」
「名簿」
「名簿の上で、魔力の欄がいちばん高かったのは、海の向こうの十一歳の子どもふたりだった。……あれは、強いものから先に殺す。あの夜、当主から殺したように」
ネージュが息をのんだ。アッシュも。
「ところが、いちばん強いふたりには、手が届かなかった。海の向こうにいたからね。だから、あの紙を貼らせた。帰ってきたら、すぐに捕まえられるように」
ヴァイスは言った。
「僕は港であの紙を見て、ゼドがあれだと確信した。……それからずっと、君たちの船を待っていた。あれがいちばん恐れているものが、帰ってくるのを」
迎えの船、とヴァイスは言った。ゆうべ、最初に。
その意味が、ようやくわかった。
「……合っちゃう」
ネージュが、ぽつりと言った。
「何が」
「計算。全部」
ネージュは、ひざを抱えた。
「信じたくないのに、全部、合っちゃう」
アッシュは、何も言わなかった。言わなくても、同じ計算をしていた。答えも、同じだった。
皇帝は、人ではない。
しばらくして、アッシュが口を開いた。
「そいつの、名前は」
「ゼドだよ」
「そうじゃない。本当の名前だ。向こうでの」
ヴァイスは、少し黙った。
「知らない。あれは、名乗らなかった。……名乗る必要がなかったんだろう。僕たちは、あれにとって、名前を呼ぶほどのものじゃなかった」
「じゃあ、ゼドは」
「どこにでもいそうな名前だ」
ヴァイスは言った。
「どこにもいない男の、名前だよ」
アッシュは、焼けた手首を握りしめた。痛みが、腕を駆け上がった。
処刑を仕切った男の名前は、知っている。ガルシュだ。けれど、ガルシュに剣を渡したものには、名前がない。
仇を、名前で呼ぶことさえできない。




