六 誰が信じるのか
「頼みがある」
ヴァイスが言った。
「……いや、取引だな。僕に払えるものは、ほとんどないけれど」
「言ってみろ」アッシュが言った。
「ここを出たい。出て、知らせたい。皇帝は人じゃない、と。国じゅうに」
鎖が鳴った。ヴァイスが身を乗り出したのが、音でわかった。
「五年、黙っていた。黙っているあいだに、国がひとつ倒れて、ふたつ食われた。看守たちの話じゃ、来年の春には三つ食われる。……もう黙っていたくない。君たちは、処刑された貴族の子で、オルフェン帰りの魔法使いだ。その君たちが、僕の話は理論に合うと言ってくれれば――」
「当たり前だ」
アッシュが言った。
「本当のことなら、言えばいい。みんな知らないだけだろ。知れば――」
「三秒待って」
ネージュの声が、ふたりの声を止めた。
「ドルクって人の話、覚えてる?」
アッシュは黙った。
「採石場で、一日に石を六十。いまは四十でいい。飯も出る。……その四十をくれた人が化け物だったって聞いて、六十に戻りたいと思う人が、何人いると思う?」
「それは――」
「皇帝が人じゃなくても、四十は四十なの。土地をもらった人は、土地を持ってる。税を取られなくなった人は、取られない。あの人たちにとって、皇帝が人かどうかは、いちばん大事なことじゃない」
ネージュは言葉を切った。それから、ヴァイスのほうへ向き直った。見えないはずの闇の中で。
「それに、信じたとして、その人たちは何をするんですか。皇帝に逆らえば、第一種です。その日のうちに、処分。……ミュラさんが、ていねいに帳簿につけて、おしまいです」
ヴァイスは答えなかった。
「最後に」ネージュは言った。「証拠が、ひとつもありません」
「僕が、見た」
「あなたの記憶だけです。死んだことになってる、記録係の。帳面は焼かれました。あの夜のことを知っている人は、あなたのほかに誰もいない。……私が皇帝なら」
ネージュは、静かに言った。
「あなたの話を聞いた人を、ひとり残らず、帳簿に載せます」
長い沈黙があった。
水がいくつ落ちたのか、アッシュは数えなかった。
「……じゃあ」
ヴァイスの声が、かすれていた。
「黙っていろ、と言うのかい。七人死んだ。当主も入れて。リタは十四だった。国がひとつ倒れて、君たちの親も――」
「黙っていろとは言ってません」
ネージュが言った。
「言うなら、信じてもらえる形で言わないと、言った人が死ぬだけだって言ってるんです。……あなたも、私たちも」
「本当のことには、力がある」
ヴァイスは、しぼり出すように言った。
「僕は、それだけを頼りに、五年――」
「力があるのは、本当のことを聞きたい人に届いたときだけです」
ネージュは、少しだけ声をやわらげた。
「いまのこの国に、それを聞きたい人がどれだけいるのか。……まず、それを知らないと」
アッシュは、ひざを抱えていた。
ネージュの言うことは、正しかった。一行ずつ、全部正しかった。正しいから、腹が立った。本当のことを言えば、それで何かが変わると思っていた。変わらないのなら、本当のことは、何のためにあるのか。
「じゃあ、どうすればいいんだよ」
自分の声が、思ったより子どもっぽく響いた。
ネージュは、すぐには答えなかった。
「……わからない」
ごまかさない答えだった。
「わからないけど、少なくとも、ここにいたら何もできない」
ヴァイスが、小さく笑った。泣き笑いのような声だった。
「それは、僕が五年前に、自分に言うべき台詞だったな」
◇
鎖が鳴って、何かが近づいてくる気配がした。ヴァイスが、鎖ののびるかぎり、はってきたのだ。
闇の中に、手がさし出された。見えなくても、わかった。
「組もう」ヴァイスは言った。「僕には、知っていることしかない。君たちには、それ以外の全部がある」
ネージュは、少し黙った。
「条件があります」
「何なりと」
「うそをついたら、その場で凍らせます」
「オルフェンは、物騒な教育をするね」
「学府の方針じゃありません。私の方針です」
アッシュは、思わず息を吐いた。笑ったのかもしれなかった。こんな場所で。
ネージュの手が闇の中を探り、ヴァイスの手を見つけた。アッシュの手も、その上に重なった。
三人の手は、どれも冷たかった。
手が離れると、ヴァイスは声を低くした。
「ここから地上までに、扉が三つある。鍵は、看守がひとつずつ持っている。昼と夜で、四人が交代する」
「……よく知ってますね」
「一年いれば、足音で数えられるようになる」
ネージュが、鉄格子のほうへ手を伸ばした。暗闇の中で、けさ指で覚えた場所を探す。細い筋は、まだそこにあった。
「熱くした鉄を急に冷やせば、割れる。……けさ、そう言いましたよね」
「言ったね」
「鉄格子が割れるなら」
ネージュは、自分の手首の封じ環を、指で軽くたたいた。かたい音がした。
「これも、割れます」
アッシュは、はっとして自分の手首を見下ろした。何も見えなかった。けれど、そこに何がはまっているのかは、わかっていた。熱をため、力を奪う、黒い環。それさえ割れば――
ヴァイスは、しばらく黙っていた。
「……ああ。割れるね」
それから、声をいっそう低くした。
「ただ、割れば音がする。割ったあとにも、扉が三つ残る。……割るのは、いちばんいい夜にしよう」
◇
夜が来た、らしかった。二度目のかゆが運ばれ、ランタンの光が来て、去っていった。看守は、水路のことはもう忘れているようだった。
ヴァイスが、自分の器を、鎖ののびるかぎり押してよこした。
「食べなさい。君のぶんは、けさ床が食べた」
ネージュは少し迷ってから、半分だけ口にして、残りをアッシュに回した。アッシュはそれを、黙ってヴァイスのほうへ押し戻した。
器は、三人のあいだを一周して、空になった。
ふたりは、また壁に背中をつけて座った。
「アッシュ」
「ん」
「お父さん、反対してたんだね」
「……ああ」
「えらいね」
「えらくても、死んだ」
「うん」
ネージュは、少し黙った。
「でも、えらい」
アッシュは答えなかった。答えなかったが、肩の力が少しだけ抜けた。ネージュの肩が、それを受け止めた。
そのとき、鐘が鳴った。
遠かった。石の天井のずっと上、地上のどこかで。ひとつ。
それから、もうひとつ。
みっつ目は、別の方角から聞こえた。よっつ目といつつ目が重なった。鳴らし方に、決まった間がない。誰かが、力まかせに綱を引いている。
鐘の音が何重にもなって、石の奥までしみこんできた。
鎖が、激しく鳴った。ヴァイスが跳ね起きたのだ。
「……あの鳴らし方は、火事じゃない」
「じゃあ、何だ」
ヴァイスは、すぐには答えなかった。
「一度だけ、聞いたことがある」
かすれた声で、言った。
「五年前の、十一月に」
天井の上で、重いものが落ちたような音がした。低く、腹の底に響く音だった。石の粉が、ぱらぱらと降ってきた。
水の落ちる音が、速くなった。




