一 鐘
鐘は、鳴りやまなかった。
石の天井の向こうで、いくつもの鐘が、互いを追い越すように鳴っている。近い鐘と、遠い鐘。高い鐘と、低い鐘。帝都じゅうの塔が、いっせいに叫んでいるようだった。ときどき、重いものが落ちるような音がまじった。そのたびに、天井から石の粉が降った。
アッシュは、闇の中で身を起こしていた。
手首の火傷が、脈を打つたびに痛んだ。腹が、ひどく空いていた。きのうから口にしたのは、薄いかゆと、生ぬるい水だけだ。それでも、眠気はどこかへ消えていた。
頭の上のほうで、扉の開く音がした。
看守たちの声が、切れ切れに降ってくる。
「――地下のやつらだとよ。文書院の門まで来てるって」
「こっちに来るのか」
「知るか。全員、上へ集まれってお達しだ」
「鍵はどうする」
「おまえが全部持っとけ。ここは、どうせ誰も出られねえ」
足音が、上へ上へと遠ざかっていく。扉の閉まる音がした。ひとつ。少しして、もうひとつ。そのたびに、鍵の回る音がした。
それきり、何も聞こえなくなった。
鐘の音と、水の落ちる音だけが残った。
「……持ち場を捨てたね」
ヴァイスが言った。
「看守が四人とも上へ行ったのは、この一年で、はじめてだ」
「……また、国が倒れるのか」
アッシュが言った。五年前の十一月に一度だけ聞いた、とヴァイスはさっき言った。この鐘と、同じ鳴らし方を。
「さあ」
ヴァイスは、少し考えるように黙った。
「倒れるには、剣が足りない気がするね。……五年前は、見張りの剣が向きを変えた。いま剣を持っているのは、五年前に向きを変えた者たちだ。あの人たちには、もう向きを変える理由がない」
――土地をもらった人は、土地を持ってる。税を取られなくなった人は、取られない。
ネージュの言ったことを、アッシュは思い出した。
「地下のやつら、って言ってた」
ネージュが、ささやくように言った。
「この国で、まだ、何かと戦ってる人たちがいるの?」
「いるんだろうね。五年もたてば、何かは育つ」
ヴァイスは、ゆっくりと言った。
「看守たちが、ときどき話していた。下水道のねずみ、とね。魔法使いの生き残りが、町の下に巣を作っているらしい。……僕は、見たことがないけれど」
鎖が、小さく鳴った。
「ここは、文書院の床の下だ。僕たちがいるのが、いちばん底。その上に、牢の階がもうひとつある。いちばん上の扉を出れば、文書院の中だ。……外の連中がこの建物の門まで来ているなら、狙いは、たぶん、牢だよ」
アッシュは、立ち上がっていた。いつ立ったのか、自分でもわからなかった。
「助けに来たってことか」
「来ようとしている、だね」
鎖が鳴った。
「それに、ひとつだけ確かなことがある。外で何が起きているにせよ、この建物の連中は、囚人を奪われるくらいなら、殺すほうを選ぶ。……第一種は、その日のうちに処分。君が、そう言っていたね」
ネージュの息が、止まった。
「でも、看守は、どうせ誰も出られないって」
「看守はね。看守が考えるのは、囚人が出られるかどうかだ。看守に命令する側は、囚人が外から奪われるかどうかを考える」
奪われるかもしれないなら、奪われる前に――。
ヴァイスは、その先を言わなかった。言わなくても、わかった。外の騒ぎが、この建物の中まで届けば。誰かがここへ降りてくる。今度は鍵ではなく、剣を持って。
「いちばんいい夜にしよう、って言ったよな」
アッシュが言った。
ヴァイスは、闇の中で小さく笑った。
「言ったね。……いちばんいい夜のほうから、来てくれたらしい」
アッシュは、手首の環を握った。
「じゃあ、俺が先に行く」
「どこへ」ネージュが言った。「鉄格子の中で」
「……割る。俺のから」
割れば、もう戻れない。封じ環を自分で割った囚人を、この国がどう扱うか。考えなくてもわかった。
それでも、ここにいれば、剣を持った誰かが降りてくる。
ネージュは、少しのあいだ黙っていた。
それから、アッシュの手首に、指を添えた。
「三秒待って。……どこを冷やすか、決めるから」
ネージュの指が、環の上で止まった。
「学府の塔、覚えてる?」
「……落ちたやつか」
「先生に言われたこと」
アッシュは、思い出した。片方が落ちて、片方が拾った。だが、実戦であれをやってみろ。次は、拾うほうもいっしょに落ちるぞ。
「今度は、落ちないで」
ネージュは言った。
「拾えないかもしれないから」
アッシュは、うなずいた。暗闇の中でも、ネージュにはわかったはずだった。
そのときだった。
頭の上の、ずっと上のほうで、悲鳴が上がった。
ひとつ。
途中で、切れた。
ふたりは、顔を見合わせた。暗闇の中で、互いの顔は見えなかった。見えなくても、同じ顔をしているのがわかった。
少しして、また悲鳴がした。さっきより、ほんの少しだけ近かった。
「上の牢だ」
ヴァイスの声が、低くなった。
「……もう、始めたんだ」




