二 開かない扉
鉄格子の扉には、錠がかかっていた。
外側に。手を伸ばしても、指先がやっと届くところに。アッシュは指を錠にかけて、熱を送りこもうとした。封じ環が、手首で焼けるように熱くなる。錠は、ぬるくなっただけだった。触れているのが指先だけでは、とても足りない。
「だめだ。遠い」
「環を割るの」ネージュが言った。「先に」
ネージュは、アッシュの右の手首を両手で包んだ。環の表面を、指でなぞっていく。暗闇の中で、何かを探すように。
やがて、指が一点で止まった。
「ここ。……継ぎ目がある。はめるときに、閉じたところ」
「わかるのかよ、そんなの」
「わかる。ここだけ、冷たさの伝わり方が違う」
ネージュは、その一点に、人差し指を一本だけ当てた。
「熱くして。環に、ためて。……いちばん熱くなったら、言って」
アッシュは、目を閉じた。
熱を出す。外へは抜けない。抜けない熱が、環の内側にたまっていく。手首が焼けた。きのうの火傷の上に、けさの火傷の上に、また重なっていく。肉の焼ける匂いがした。自分の匂いだった。
環が、暗闇の中で、にぶい赤に光りはじめた。赤が、だいだいに変わる。その光で、ネージュの顔が見えた。まばたきもせずに、自分の指先だけを見ていた。
歯を食いしばった。声が漏れた。
「……いま」
ネージュの指先が、白く光った。
冷たさが、一点に落ちた。
ぴし。
鉄格子のときと同じ音が、手首から聞こえた。
環が、継ぎ目から割れて、床に落ちた。
環をはめられたとき、魔力の通り道に、泥を流しこまれたような気がした。その泥が、半分、流れ出ていった。
左の環も、同じようにして割った。二度目は、少しだけ早かった。
ふたつ目の環が床に落ちた瞬間、残りの泥も、一気に流れ出た。
指の先まで、血が通うように、熱が通った。それまで自分の体が自分のものではなかったのだと、はじめてわかった。
息が、深くなった。見えるものが、変わった。
暗闇の中に、灯りが見えた。ふたつ。ひとつは、すぐそばで、白く冷たく光っている。もうひとつは、奥の隅で、弱く揺れている。
ネージュと、ヴァイスの体温だった。
十年、ずっと見えていたものが、戻ってきた。
そのあいだにも、上から、ときどき悲鳴が降ってきた。そのたびに、少しずつ近くなっていた。
「次は、私の」
ネージュが、手首を差し出した。
アッシュは、ためらった。
「俺が熱くしたら、お前の手首が焼ける」
「焼けないようにする」
ネージュは、環の内側へ、自分の冷たさを流しこんだ。環と皮膚のあいだに、薄い霜の膜ができていく。
「外から熱くして。内側は、私が冷やしておく。……環だけが、熱くなるように」
「もし、しぼりきれなかったら」
「しぼれる」
ネージュは、迷わずに言った。
「十年、あなたの火で、私が焼けたことは一度もない」
アッシュは、何も言い返さなかった。言い返す言葉を、探さなかった。
両手で、ネージュの環を包んだ。
熱を送る。今度は、自分の手首に封じ環がない。熱は、思ったとおりに流れた。流れすぎないように、しぼった。ネージュの手首の霜が、じわじわと溶けては、また凍る。環の外だけが赤くなり、内側は白いまま、ぎりぎりのところで釣り合っていた。
十年で、いちばん細い熱だった。
「……いま」
ぴし。
ネージュの環が、床に落ちた。
赤い光が消えて、闇が戻った。その闇の中でも、アッシュには見えた。ネージュの冷たい手首に、ひとすじだけ、熱い筋が残っている。
火傷だった。
十年で、はじめてだった。
ネージュは、何も言わなかった。アッシュも、何も言えなかった。
もう片方は、もっと細くした。
ぴし。
ふたつ目の環が落ちると、牢の中の空気が、ふっと冷えた。壁の石から、かすかに、きしむような音がした。湿った石の表面が、凍っていくのだ。ネージュの魔力が、戻ってきた。
隣で、ネージュが長い息を吐いた。頬にかかったその息は、冬の朝のように冷たかった。
それから、ネージュはアッシュの手首に触れた。
焼けた皮膚の上に、冷たい指が置かれる。違うのは、その冷たさが、今度はにごらずに届くことだった。
「痛い?」
「痛くない」
「うそ」
けさと、同じやりとりだった。
「……そっちこそ」
ネージュは、答えなかった。ただ、指を離さなかった。
◇
アッシュは、鉄格子のあいだから腕を伸ばし、指先を錠にかけた。
さっきは、ぬるくなっただけの錠だった。
今度は、指先だけで足りた。錠が赤くなり、だいだいになり、白くなって、溶け落ちた。床の上で、じゅっと音がした。
鉄格子の扉が、きしみながら開いた。
ヴァイスの足首の鎖は、ただの鉄だった。アッシュが指でつまむと、輪のひとつが、あめのようにのびて切れた。
ヴァイスの手首には、封じ環がなかった。
「僕には、はめるまでもないと思われたらしい」
ヴァイスは、自分の手首をさすりながら言った。
「あの夜と同じさ。数に入らなかった」
笑っているような声だった。笑ってはいなかった。
「……俺たちは、数えてる」
アッシュが言った。
ヴァイスが、顔を上げた。
「あんたも、数に入ってる。三人だ」
ヴァイスは、しばらく何も言わなかった。それから、小さく息を吐いた。
「……ありがとう。じゃあ、せいぜい足を引っぱらないようにするよ。僕は、うしろにいる」
牢の外は、細い通路だった。数歩先に、最初の扉がある。厚い鉄の扉だ。錠は、今度はこちら側を向いていた。大きく、分厚い錠だった。溶かすには、時間がかかりそうだった。
アッシュが錠をつかみ、熱くする。ネージュが、その上から手を重ねて、冷やす。
今度は、止めるためではなかった。
ぴし、と鳴った。
錠が、まっぷたつに割れて、床に落ちた。
「……鍵屋が泣くね」
うしろで、ヴァイスがつぶやいた。
扉を押すと、重い音を立てて開いた。
その向こうから、足音が降りてきた。
看守の足音ではなかった。重く、そろっている。金属の触れ合う音が、一歩ごとにまじる。
ヴァイスが、ささやいた。
「……槍だ」




