三 狭い通路
通路は、狭かった。
ふたりが並べば、肩がつかえる。天井は低く、壁の金具に、松明が点々と差してある。その先に、上へ続く石段があった。足音は、そこから降りてきていた。
「通路は、狭い」
ネージュが、低く言った。
「横に並べるのは、ふたりまで。囲まれない。……槍は、前からしか来ない」
学府の演習で、何度も聞いた声だった。演習の前に地図を広げて、どこでどう戦うかを決めるときの、ネージュの声だ。
「前からしか来ないなら」アッシュが言った。「前だけ見てればいい」
「そういうこと」
最初に見えたのは、ランタンだった。
片耳の欠けた看守が、それを掲げていた。腰に、鍵をみっつ通したひもを下げている。そのうしろに、槍を持った兵が続いていた。六人。黒い外套に、交差した二本の剣の印。
「――第二種は、残らず処分しろ、とのお達しだ」
先頭の兵が言った。
「上の階は、もう済んだ。あとは、この底だけ――」
奪われる前に、殺す。ヴァイスの言ったとおりだった。
看守のランタンが、通路の先を照らした。
開いた扉と、その前に立つ、ふたりの子どもを。
看守の口が、ぽかんと開いた。
「……出てやがる」
槍が、いっせいにこちらを向いた。
「アッシュ」
ネージュが言った。
「三秒」
アッシュは、待った。
ひとつ。
ネージュが、しゃがんで床に手をついた。
ふたつ。
白いものが、床を走った。石の上を、音もなく広がっていく。通路の幅いっぱいに、槍兵たちの足もとへ。
みっつ。
「行って」
アッシュは、手のひらを前へ突き出した。
熱い空気が、壁になって通路を駆けた。槍兵たちが、顔をかばって足を踏ん張った。
踏ん張ったその足が、凍った床の上ですべった。
先頭のふたりが、もつれるように倒れた。倒れた体に、うしろの者がつまずいた。槍の柄が壁に当たり、天井に当たり、からからと床を転がった。
「魔法使いが――」
「ひるむな! 環が外れてやがる、網を――」
先頭の兵が怒鳴った。網は、誰も持っていなかった。底の牢の囚人を殺すのに、網が要るとは思っていなかったのだろう。
倒れていなかったひとりが、槍を投げた。
まっすぐ、アッシュの胸へ。
ネージュが、手を払った。宙に、白い板が生まれた。槍は氷の板に突き刺さり、そのまま凍りついて、床に落ちた。
「前だけ見てればいい、って言ったのは誰だっけ」
ネージュが、横目でアッシュを見た。
アッシュは、むっとして言い返した。
「……見てた」
「見てただけ。よけなかった」
ネージュの言うとおりだった。
アッシュは、壁の松明に目をやった。
熱を、奪うのではない。押しこむ。炎が一瞬ふくれ上がり、それから、燃やすものを食いつくして、ふっと消えた。一本。二本。三本。
通路が、闇に沈んだ。
看守の落としたランタンだけが、床の上で、横倒しのまま小さく燃えていた。
闇の中で、兵たちのうろたえる声がした。
アッシュには、見えていた。
熱を持つものは、闇の中でも、そこにいるとわかる。六つの体温が、凍った床の上に散らばっていた。起き上がろうとする体温。はって槍を探す体温。いちばんうしろで、じっと動かない体温。看守の体温は、もう石段のほうへ逃げかけていた。どこに誰がいて、誰が槍を握っていて、誰が落としたのか。全部、見えた。
石段の下で、じゃらりと音がした。看守が、腰の鍵を落としたのだ。その体温は、拾いもせずに、石段を駆け上がっていった。
闇は、アッシュの味方だった。
立ち上がりかけた兵が、槍を構え直した。アッシュは、その穂先だけに熱を集めた。穂先が赤くなり、だいだいになり、やわらかくなった。槍の先が、花がしおれるように垂れ下がった。兵は、自分の槍を見て、声にならない声を上げた。
ネージュが、ランタンの小さな光の中を、すべるように進んだ。
槍を拾おうとした兵の手に、指先でそっと触れる。兵の指が、白く曇った。握ろうとした槍が、指からこぼれ落ちた。
「手が……手が、動かねえ」
「すぐ戻ります」
ネージュは、そっけなく言った。
「凍らせたわけじゃありません。感じなくしただけ」
体が、軽かった。
十年かけて覚えたことが、全部、指の先にあった。どこに熱を置けば、何が起きるか。考えるより先に、手がわかっている。ネージュの氷がどこへ伸びるかも、見なくてもわかった。学府の演習場で、何百回もやったとおりだった。対抗試合で、ふたりに勝てた組は、一組もなかった。
殺さなくていい。
槍を使えなくして、足を奪って、道をあければいい。それだけで、いい。
ネージュが、壁に手をついた。
通路の途中に、氷の壁が立ち上がった。倒れた兵たちと、こちらとのあいだに。分厚く、白く、向こうが透けて見えない。
壁の向こうの体温が、ふっと見えなくなった。分厚い氷は、熱もさえぎるのだ。
「これで、終わり」
ネージュが振り返った。
「あとは、向こうが引きあげるのを待てば――」
そのとき、アッシュは見た。
氷の壁の端。通路の石の壁とのあいだに、わずかな隙間が残っていた。
そこから、槍が一本、突き出てきた。
若い兵だった。いちばんうしろで、じっと動かなかった兵だ。転ばずに、仲間の陰で、すきをうかがっていたのだ。
穂先は、まっすぐ、振り返ったネージュの背中へ向かっていた。
考えるより先に、手が動いた。
十年で、いちばん速い熱だった。
しぼることも、狙うことも、しなかった。
炎が、隙間ごと、兵を飲みこんだ。
悲鳴は、短かった。
槍が、からん、と床に落ちた。
炎が、消えた。
氷の壁の端が、溶けて崩れ落ちていた。
通路に、焼けた匂いが満ちた。さっき牢でかいだのと、同じ匂いだった。今度は、自分の匂いではなかった。
アッシュは、動けなかった。
崩れた氷のそばに、兵があおむけに倒れていた。床のランタンの光が、そこまで届いていた。炎は、胸から下を焼いていた。顔だけが、焼けずに残っていた。
そばかすのある顔だった。
口が、少し開いていた。何か言いかけたまま、止まっているような顔だった。
ノイと、同じくらいの歳の少年だった。
「ヨラン!」
氷の壁の向こうで、誰かが叫んだ。
「ヨラン、おい、ヨラン――」
返事は、なかった。
アッシュは、その名前を聞いた。聞いてしまった。
仇を、名前で呼ぶことさえできない。牢の中で、そう思っていた。いまは、自分が誰かの仇だった。そして、自分が焼いた相手の名前を、知っている。
闇の中で、その体温が、ゆっくりと薄れていくのが見えた。見たくなかった。見えてしまった。
手のひらで、まだ火が燃えていた。
消そうとした。消えなかった。消し方が、わからなかった。十年かけて覚えたはずなのに。灼くより消すほうが難しい、と父は言った。その難しいほうが、どこかへ行ってしまっていた。
冷たいものが、手のひらを包んだ。
ネージュの両手だった。
火が、湯気になって消えた。
ネージュは、何も言わなかった。アッシュの手を握ったまま、倒れた兵を見ていた。自分の背中へ来るはずだった槍を、見ていた。
「……行こう」
ヴァイスが言った。
「立ち止まったら、次は僕たちの番だ」
◇
氷の壁の向こうで、足音が逃げていった。石段を、転がるように上がっていく。ヨランの名を呼んでいた声も、いっしょに遠ざかっていった。誰も振り返らなかった。
上で、扉の閉まる音がした。鍵の回る音は、しなかった。
「底の囚人が、環を割った!」
誰かの叫び声が、上の階を遠ざかっていった。
崩れた壁の端を抜けるとき、倒れた兵の横を通った。アッシュは、見なかった。見なくても、そこにあるのはわかった。体温は、もうなかった。
石段の下に、鍵のひもが落ちていた。さっきの音は、これだった。
ネージュが、それを拾った。
石段を上がりながら、ネージュが、小さく言った。
「……ごめん」
「謝るな」
アッシュは、前を向いたまま言った。
それきり、ふたりとも黙った。握った手だけは、離さなかった。
石段を上がると、もうひとつ上の階の通路に出た。
牢の扉が、並んでいた。どれも、開いていた。
中を、アッシュは見なかった。ネージュも見なかった。
ヴァイスだけが、ひとつずつ、のぞいていった。誰かを探すように。
見つからなかったようだった。ヴァイスは何も言わず、また歩きだした。
最後の扉にも、錠はおりていなかった。錠をおろすための鍵は、ネージュの手の中にある。
扉を押し開けると、鐘の音が、急に大きくなった。




