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炎と氷の帰還者――魔法が罪になった祖国で  作者: parupuntist
第二章 牢の先客

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一 声だけの男

 水が落ちた。ひとつ、ふたつ、みっつ。


 誰も動かなかった。


 アッシュは、ネージュの手首をつかんだままでいた。前に出ようとして、引き止められた。その手を、今度は自分がつかんでいる。放せば、ネージュがひとりで闇の中へ出ていってしまいそうな気がした。


「……誰」


 ネージュが言った。震えてはいなかった。震えないように、声を低くおさえている。


「同じ部屋の者だよ」


 闇の奥の声は、少しおかしそうに答えた。


「先に住んでいた、というだけのね。宿代は払っていない」


「なんで、俺たちの名前を知ってる」


 アッシュの声が、思ったより大きく石に跳ね返った。


「壁の紙さ」


「……紙」


「港の詰所で、見なかったかい。五年前の冬、国じゅうの詰所に同じ紙が貼られた。十一歳の子どもがふたり。名前と、歳と、それだけの紙だ」


 鎖が鳴った。男が座り直したらしい。


「罪状の欄は、見たかい」


 ネージュは、答えに詰まった。あの紙の下半分は、あとから貼られた布告に隠れていた。名前と年齢は読めた。その下は、見ていない。


「……見えなかった。上に、別の紙が重なってて」


「空いていたんだよ」


 男は言った。


「何も書いていなかった。書けなかったんだ。十一歳の子どもが、海の向こうで何をしたと書く? 罪のない子どもを捕まえろという紙を、国じゅうに貼った。……おかしいと思わないかい」


「思う」アッシュは言った。「だから、なんでだよ」


「恐れていたからさ。あの紙を書かせた者が」


「誰が」


 返事はなかった。水の落ちる音だけがした。


「それを話すには」と、やがて男は言った。「君たちが本物かどうか、確かめなくちゃいけない」


「本物?」


「ここは牢だよ。同じ部屋に、都合よく、話を聞きたがる者が入れられることもある」


 ネージュが、短く息を吐いた。笑ったのだと、アッシュにはわかった。


「それは、こっちの台詞です」


「そうだろうね」男の声も、少し笑っていた。「じゃあ、お互いさまだ。……ヴェルサリアで、召喚術式は習ったかい」


「理論だけ」


「なら聞こう。門を開くとき、呼び手が最初に決めるものは」


 ネージュは迷わなかった。


「しるべ。……何を呼ぶかじゃなくて、どこに扉をつけるか」


「閉じるときは」


「開いたときと同じだけの力を、逆向きにかける。その前に、錨を外す」


「教科書どおりだ」


 男の声に、かすかな懐かしさがまじった。


「オルフェンの教科書は、ちゃんとしてる」


「試験なら、学府でうんざりするほど受けた」


 アッシュが言うと、ネージュの指が、彼の手の甲を軽くたたいた。黙って、の合図だ。


「今度は、私が聞きます」


 ネージュは言った。


「錨を外す前に門が閉じはじめたら、どうなりますか」


 教科書には、載っていない問いだった。学府の老魔導師も、そこだけは答えなかった。閉じられると決まったものではない、と言っただけだ。


 水が、ひとつ落ちた。ふたつ落ちた。


「……錨の先にいるものごと、ちぎれる」


 男の声から、笑いが消えていた。


 本で読んだ者の声ではなかった。見た者の声だった。


 アッシュの手の中で、ネージュの指が少しだけこわばった。


「あなた、召喚術師ですね」


「……だった」


 短い答えだった。


「ヴァイス。いまは、ただのヴァイスだ」


◇


 ヴァイスは、それ以上のことを話さなかった。


「明かりが来たら話そう。顔を見て話したいんだ。……長い話になる」


 それきり、黙った。


 夜が、どれくらい続くのかわからなかった。ふたりは壁に背中をつけて座った。石は冷たく、湿っていた。ネージュの肩が、アッシュの腕に触れていた。どちらも、離れようとはしなかった。


 ネージュは、闇の奥の声を思い返していた。


 言葉づかいが、港の人たちとは違った。ひとつひとつの言葉を、ていねいに置くように話す。父の屋敷に出入りしていた学者たちと、同じ話し方だった。


 宮廷の言葉だ、と思った。王国がまだあったころの。


 アッシュは、闇の奥に目をこらしていた。何も見えない。いつもなら、魔力の気配くらいは感じ取れる。熱を持つものは、闇の中でも、そこにいるとわかる。


 封じ環が、それをにごらせていた。泥の中から、泥の向こうを見ようとしているようだった。


「あなたは、いつから、ここに」


 しばらくして、ネージュが闇に聞いた。


「去年の秋から」


「春に、審理があるって聞きました」


「あるんだろうね。記録の上では」


 ヴァイスの声は、眠たげだった。


「この春、僕の名前は呼ばれなかった」


 ネージュは、それ以上聞かなかった。


 アッシュは、眠れなかった。目を閉じると、ペンの音がした。執行済、と書く音が。


「寝て」ネージュが小声で言った。「見張りは、私がする」


「お前こそ寝ろ」


「三秒で寝る」


「うそつけ」


 ネージュは答えなかった。答えの代わりに、アッシュの腕に、少しだけ体重を預けてきた。


 眠ってはいなかった。息づかいで、わかる。それでも、そのまま、ふたりとも動かなかった。


 やがて、アッシュは闇に向かって、別のことを聞いた。


「壁の線」


 鎖は鳴らなかった。


「あれ、あんたが刻んだのか」


 長い間があった。水が、よっつ落ちた。


「……僕じゃない」


「じゃあ、誰が」


 また、間があった。


「数えるのは、あいつの仕事だった」


 それきり、ヴァイスは何も言わなかった。


 あいつ、が誰なのか。最後の一組が、なぜ二本で止まっているのか。聞けば、答えるのかもしれなかった。アッシュは聞かなかった。ネージュも聞かなかった。


 聞かないでおくのが優しさになるときを、ふたりは十年かけて覚えた。それが、こんな場所で役に立つとは思わなかった。

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