一 声だけの男
水が落ちた。ひとつ、ふたつ、みっつ。
誰も動かなかった。
アッシュは、ネージュの手首をつかんだままでいた。前に出ようとして、引き止められた。その手を、今度は自分がつかんでいる。放せば、ネージュがひとりで闇の中へ出ていってしまいそうな気がした。
「……誰」
ネージュが言った。震えてはいなかった。震えないように、声を低くおさえている。
「同じ部屋の者だよ」
闇の奥の声は、少しおかしそうに答えた。
「先に住んでいた、というだけのね。宿代は払っていない」
「なんで、俺たちの名前を知ってる」
アッシュの声が、思ったより大きく石に跳ね返った。
「壁の紙さ」
「……紙」
「港の詰所で、見なかったかい。五年前の冬、国じゅうの詰所に同じ紙が貼られた。十一歳の子どもがふたり。名前と、歳と、それだけの紙だ」
鎖が鳴った。男が座り直したらしい。
「罪状の欄は、見たかい」
ネージュは、答えに詰まった。あの紙の下半分は、あとから貼られた布告に隠れていた。名前と年齢は読めた。その下は、見ていない。
「……見えなかった。上に、別の紙が重なってて」
「空いていたんだよ」
男は言った。
「何も書いていなかった。書けなかったんだ。十一歳の子どもが、海の向こうで何をしたと書く? 罪のない子どもを捕まえろという紙を、国じゅうに貼った。……おかしいと思わないかい」
「思う」アッシュは言った。「だから、なんでだよ」
「恐れていたからさ。あの紙を書かせた者が」
「誰が」
返事はなかった。水の落ちる音だけがした。
「それを話すには」と、やがて男は言った。「君たちが本物かどうか、確かめなくちゃいけない」
「本物?」
「ここは牢だよ。同じ部屋に、都合よく、話を聞きたがる者が入れられることもある」
ネージュが、短く息を吐いた。笑ったのだと、アッシュにはわかった。
「それは、こっちの台詞です」
「そうだろうね」男の声も、少し笑っていた。「じゃあ、お互いさまだ。……ヴェルサリアで、召喚術式は習ったかい」
「理論だけ」
「なら聞こう。門を開くとき、呼び手が最初に決めるものは」
ネージュは迷わなかった。
「しるべ。……何を呼ぶかじゃなくて、どこに扉をつけるか」
「閉じるときは」
「開いたときと同じだけの力を、逆向きにかける。その前に、錨を外す」
「教科書どおりだ」
男の声に、かすかな懐かしさがまじった。
「オルフェンの教科書は、ちゃんとしてる」
「試験なら、学府でうんざりするほど受けた」
アッシュが言うと、ネージュの指が、彼の手の甲を軽くたたいた。黙って、の合図だ。
「今度は、私が聞きます」
ネージュは言った。
「錨を外す前に門が閉じはじめたら、どうなりますか」
教科書には、載っていない問いだった。学府の老魔導師も、そこだけは答えなかった。閉じられると決まったものではない、と言っただけだ。
水が、ひとつ落ちた。ふたつ落ちた。
「……錨の先にいるものごと、ちぎれる」
男の声から、笑いが消えていた。
本で読んだ者の声ではなかった。見た者の声だった。
アッシュの手の中で、ネージュの指が少しだけこわばった。
「あなた、召喚術師ですね」
「……だった」
短い答えだった。
「ヴァイス。いまは、ただのヴァイスだ」
◇
ヴァイスは、それ以上のことを話さなかった。
「明かりが来たら話そう。顔を見て話したいんだ。……長い話になる」
それきり、黙った。
夜が、どれくらい続くのかわからなかった。ふたりは壁に背中をつけて座った。石は冷たく、湿っていた。ネージュの肩が、アッシュの腕に触れていた。どちらも、離れようとはしなかった。
ネージュは、闇の奥の声を思い返していた。
言葉づかいが、港の人たちとは違った。ひとつひとつの言葉を、ていねいに置くように話す。父の屋敷に出入りしていた学者たちと、同じ話し方だった。
宮廷の言葉だ、と思った。王国がまだあったころの。
アッシュは、闇の奥に目をこらしていた。何も見えない。いつもなら、魔力の気配くらいは感じ取れる。熱を持つものは、闇の中でも、そこにいるとわかる。
封じ環が、それをにごらせていた。泥の中から、泥の向こうを見ようとしているようだった。
「あなたは、いつから、ここに」
しばらくして、ネージュが闇に聞いた。
「去年の秋から」
「春に、審理があるって聞きました」
「あるんだろうね。記録の上では」
ヴァイスの声は、眠たげだった。
「この春、僕の名前は呼ばれなかった」
ネージュは、それ以上聞かなかった。
アッシュは、眠れなかった。目を閉じると、ペンの音がした。執行済、と書く音が。
「寝て」ネージュが小声で言った。「見張りは、私がする」
「お前こそ寝ろ」
「三秒で寝る」
「うそつけ」
ネージュは答えなかった。答えの代わりに、アッシュの腕に、少しだけ体重を預けてきた。
眠ってはいなかった。息づかいで、わかる。それでも、そのまま、ふたりとも動かなかった。
やがて、アッシュは闇に向かって、別のことを聞いた。
「壁の線」
鎖は鳴らなかった。
「あれ、あんたが刻んだのか」
長い間があった。水が、よっつ落ちた。
「……僕じゃない」
「じゃあ、誰が」
また、間があった。
「数えるのは、あいつの仕事だった」
それきり、ヴァイスは何も言わなかった。
あいつ、が誰なのか。最後の一組が、なぜ二本で止まっているのか。聞けば、答えるのかもしれなかった。アッシュは聞かなかった。ネージュも聞かなかった。
聞かないでおくのが優しさになるときを、ふたりは十年かけて覚えた。それが、こんな場所で役に立つとは思わなかった。




