六 いちばん下
石段は、数えるのをやめるほど長かった。
降りるにつれて空気が重くなり、湿って、鉄とかびの匂いがした。松明と松明のあいだが広くなる。足もとが見えなくなる。ふたりは背中を押され、最後の数段を転げ落ちるように降りた。
鉄格子が開き、閉じた。
鍵の音が三度。足音が遠ざかる。松明の明かりが階段を上がっていき、やがて、ほとんど何も見えなくなった。
手探りでわかったのは、広さだけだった。
六歩で壁、四歩で壁。天井は、アッシュが手を伸ばしても届かない。床は石で、真ん中がわずかにくぼんでいる。長いあいだ、人が同じところに座りつづけてできたくぼみだった。
隅にわらが積んであった。触ると湿っていて、崩れた。
しばらく、ふたりとも動かなかった。
どこかで水が落ちていた。同じ間をおいて、床のくぼみに。ぽつ、ぽつ、ぽつ。
「……アッシュ」
「うん」
「手」
アッシュは手を伸ばした。暗闇の中で、二度ほど空をつかんで、三度目にネージュの指を見つけた。
冷たかった。
両手で、それを包んだ。自分の手も冷たかったので、意味はなかった。それでも、ふたりとも離さなかった。
「泣いていい?」ネージュが言った。
「……うん」
「あなたは?」
「俺は、まだ無理だ」
「じゃあ待つ」
水の落ちる音が続いていた。
ネージュは声を立てなかった。ただ、握られた指の力が強くなって、弱くなって、また強くなるのが、アッシュにはわかった。それが何度かくり返された。
どれだけそうしていたのか、わからない。やがてネージュが、ゆっくり息を吸って、吐いた。落ち着いたというより、そうすると決めた吸い方だった。
「船で、三秒待ってって言ったの、覚えてる」
「覚えてる」
「あのとき、何を言おうとしたか、聞かなかったね」
「うん」
「聞いてほしかった」
アッシュは黙った。それが正しい返事だとは思わなかったが、ほかに何も出てこなかった。
「手紙」ネージュは言った。「来なくなってから、五年たつね」
暗闇の中で、アッシュの息が止まった。
五年。
ネージュは月に一度、必ず家へ手紙を書いていた。アッシュも書いた。書いて、港へ持っていって、船に預けた。返事は、最初の五年は必ず来た。母の字で、父のひとことが最後に添えてある。姉が余白に、小さな花の絵を描いていることもあった。
それが、途絶えた。
ふたりはそのことを、一度も口にしなかった。
いや――口にしないでおこうと話し合ったわけでもないのに、ふたりとも、そうしていた。
「……海が荒れてるんだと思ってた」アッシュが言った。
「私も」
「それか、戦争があって船が減ってるとか」
「私も。リュミエルへ行く船は少ないから。季節によっては半年出ないって、教官も言ってたし」
「……うん」
「二年目くらいで、おかしいってわかってた」
「……うん」
「わかってて、あなたに言わなかった」
「俺も」アッシュは言った。「俺も、わかってて、言わなかった」
水の音が、やけに大きく聞こえた。
「私たち、五年かけて、信じないことをがんばったんだね」
その言い方が、あまりに彼女らしくて、アッシュは息が詰まった。
そしてようやく、涙が出た。
声も出さず、顔もゆがめず、ただ目から水が出ていくだけの、体が勝手にしているような泣き方だった。
ネージュは何も言わなかった。手を離さずに、もう片方の手で、アッシュの頭の横をそっと支えた。倒れないようにするというより、ここにいると教えるための手つきだった。
しばらくして、アッシュが言った。
「ネージュ」
「ん」
「怒っていい」
「誰を」
「俺を。二年目で気づいてたなら、俺に言えばよかった。俺が言えばよかった。どっちでもいい。言ってれば、俺たち、もっと早く帰ってこられた」
ネージュは少し黙った。
「帰ってきてたら、どうなったと思う」
「……」
「五年前、私たちは十一歳だった。魔法は使えた。いまの半分も使えなかったけど、使えた」
アッシュは答えられなかった。
「たぶん、あの帳簿の名前が、ふたつ増えてただけだよ」
静かな声だった。
「私たちが生きてるのは、間に合わなかったから。それを喜んでいいのか、私はまだわかってない」
◇
どれくらいたったのか、ネージュが壁のほうへ手を伸ばした。石の表面を、指でなぞる。
「アッシュ。ここ、触って」
言われたとおりにした。指先に、細い溝があった。
縦の線が四本。その上を、斜めに払う一本。
その隣に、また四本と一本。そのまた隣にも。
ふたりは暗闇の中で、壁を探った。溝は横に続いていた。手を伸ばせる範囲を超えて、肩の高さから腰の高さまで、何列にもわたって続いていた。爪で刻んだものではない。硬いもので、何日もかけて、同じ深さに。
「……数えるの、やめたほうがいいと思う」ネージュが言った。
「うん」
やめなかった。ふたりとも、黙って指をすべらせつづけた。
指が痛くなった。石の粉が爪の間に入る。溝は深く、ていねいで、一本ごとに同じ角度で払ってある。急いで刻んだものではない。一日の終わりに一本ずつ、儀式のように刻まれたものだ。
刻む道具を、この人はどこから手に入れたのだろう。
そして誰が、それを取り上げなかったのだろう。
五百を超えたあたりで、アッシュは数を見失った。ネージュは見失わなかった。いつだって見失わない。それが彼女の得意なことで、いちばん残酷なところだった。
「千二百八十七」
ネージュが言った。
「千二百八十七日。……三年半」
三年半、この壁を刻みつづけた人間がいる。
「その前は」アッシュが言った。「その人、いつからここにいたんだろう」
「刻みはじめた日から、三年半。刻みはじめるまでに何日かかったかは、わからない」
数えはじめるまでに、人は何日かかるのだろう。
最初の何日かは、明日出られると思っている。次の何日かは、来月には、と思っている。そのどちらでもないと腹をくくった日に、はじめて壁を刻む。
その日が来たことを、この人は覚えているだろうか。
そして最後の一組は、途中で終わっていた。縦の線が二本だけ。三本目に届かないまま、そこで止まっている。
アッシュは、その二本の溝に指を当てたまま、動けなくなった。
止まった理由は、ひとつしかない。
指は離さなかった。離してしまえば、この二本の線が、誰のものでもなくなる気がした。
そのとき、暗がりの奥で、何かが動いた。
衣ずれの音。石の上をこする、乾いた音。それから、長く息を吸う音がした。眠っていた人が、久しぶりに声を出そうとするときの、あの吸い方だった。
ふたりは同時に身を固くした。
闇は完全だった。音のしたほうしかわからない。奥、たぶん五歩か六歩。ずっとそこにいたのだ。ふたりが船の話をして、手紙の話をして、泣いているあいだ、ずっと。
アッシュがとっさにネージュの前に出ようとして、手を引かれて止められた。
声がした。低く、かすれて、どこか笑いを含んだ声だった。
「……まさか、迎えの船が本当に来るとはね」
闇の中で、鎖が鳴った。
「アッシュ・レイドルフ。ネージュ・フォンティーヌ」
男は、ふたりの名を正確に呼んだ。
「待っていたよ。五年、君たちだけを」




