↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
炎と氷の帰還者――魔法が罪になった祖国で  作者: parupuntist
第一章 異端

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/16

六 いちばん下

 石段は、数えるのをやめるほど長かった。


 降りるにつれて空気が重くなり、湿って、鉄とかびの匂いがした。松明と松明のあいだが広くなる。足もとが見えなくなる。ふたりは背中を押され、最後の数段を転げ落ちるように降りた。


 鉄格子が開き、閉じた。


 鍵の音が三度。足音が遠ざかる。松明の明かりが階段を上がっていき、やがて、ほとんど何も見えなくなった。


 手探りでわかったのは、広さだけだった。


 六歩で壁、四歩で壁。天井は、アッシュが手を伸ばしても届かない。床は石で、真ん中がわずかにくぼんでいる。長いあいだ、人が同じところに座りつづけてできたくぼみだった。


 隅にわらが積んであった。触ると湿っていて、崩れた。


 しばらく、ふたりとも動かなかった。


 どこかで水が落ちていた。同じ間をおいて、床のくぼみに。ぽつ、ぽつ、ぽつ。


「……アッシュ」


「うん」


「手」


 アッシュは手を伸ばした。暗闇の中で、二度ほど空をつかんで、三度目にネージュの指を見つけた。


 冷たかった。


 両手で、それを包んだ。自分の手も冷たかったので、意味はなかった。それでも、ふたりとも離さなかった。


「泣いていい?」ネージュが言った。


「……うん」


「あなたは?」


「俺は、まだ無理だ」


「じゃあ待つ」


 水の落ちる音が続いていた。


 ネージュは声を立てなかった。ただ、握られた指の力が強くなって、弱くなって、また強くなるのが、アッシュにはわかった。それが何度かくり返された。


 どれだけそうしていたのか、わからない。やがてネージュが、ゆっくり息を吸って、吐いた。落ち着いたというより、そうすると決めた吸い方だった。


「船で、三秒待ってって言ったの、覚えてる」


「覚えてる」


「あのとき、何を言おうとしたか、聞かなかったね」


「うん」


「聞いてほしかった」


 アッシュは黙った。それが正しい返事だとは思わなかったが、ほかに何も出てこなかった。


「手紙」ネージュは言った。「来なくなってから、五年たつね」


 暗闇の中で、アッシュの息が止まった。


 五年。


 ネージュは月に一度、必ず家へ手紙を書いていた。アッシュも書いた。書いて、港へ持っていって、船に預けた。返事は、最初の五年は必ず来た。母の字で、父のひとことが最後に添えてある。姉が余白に、小さな花の絵を描いていることもあった。


 それが、途絶えた。


 ふたりはそのことを、一度も口にしなかった。


 いや――口にしないでおこうと話し合ったわけでもないのに、ふたりとも、そうしていた。


「……海が荒れてるんだと思ってた」アッシュが言った。


「私も」


「それか、戦争があって船が減ってるとか」


「私も。リュミエルへ行く船は少ないから。季節によっては半年出ないって、教官も言ってたし」


「……うん」


「二年目くらいで、おかしいってわかってた」


「……うん」


「わかってて、あなたに言わなかった」


「俺も」アッシュは言った。「俺も、わかってて、言わなかった」


 水の音が、やけに大きく聞こえた。


「私たち、五年かけて、信じないことをがんばったんだね」


 その言い方が、あまりに彼女らしくて、アッシュは息が詰まった。


 そしてようやく、涙が出た。


 声も出さず、顔もゆがめず、ただ目から水が出ていくだけの、体が勝手にしているような泣き方だった。


 ネージュは何も言わなかった。手を離さずに、もう片方の手で、アッシュの頭の横をそっと支えた。倒れないようにするというより、ここにいると教えるための手つきだった。


 しばらくして、アッシュが言った。


「ネージュ」


「ん」


「怒っていい」


「誰を」


「俺を。二年目で気づいてたなら、俺に言えばよかった。俺が言えばよかった。どっちでもいい。言ってれば、俺たち、もっと早く帰ってこられた」


 ネージュは少し黙った。


「帰ってきてたら、どうなったと思う」


「……」


「五年前、私たちは十一歳だった。魔法は使えた。いまの半分も使えなかったけど、使えた」


 アッシュは答えられなかった。


「たぶん、あの帳簿の名前が、ふたつ増えてただけだよ」


 静かな声だった。


「私たちが生きてるのは、間に合わなかったから。それを喜んでいいのか、私はまだわかってない」


◇


 どれくらいたったのか、ネージュが壁のほうへ手を伸ばした。石の表面を、指でなぞる。


「アッシュ。ここ、触って」


 言われたとおりにした。指先に、細い溝があった。


 縦の線が四本。その上を、斜めに払う一本。


 その隣に、また四本と一本。そのまた隣にも。


 ふたりは暗闇の中で、壁を探った。溝は横に続いていた。手を伸ばせる範囲を超えて、肩の高さから腰の高さまで、何列にもわたって続いていた。爪で刻んだものではない。硬いもので、何日もかけて、同じ深さに。


「……数えるの、やめたほうがいいと思う」ネージュが言った。


「うん」


 やめなかった。ふたりとも、黙って指をすべらせつづけた。


 指が痛くなった。石の粉が爪の間に入る。溝は深く、ていねいで、一本ごとに同じ角度で払ってある。急いで刻んだものではない。一日の終わりに一本ずつ、儀式のように刻まれたものだ。


 刻む道具を、この人はどこから手に入れたのだろう。


 そして誰が、それを取り上げなかったのだろう。


 五百を超えたあたりで、アッシュは数を見失った。ネージュは見失わなかった。いつだって見失わない。それが彼女の得意なことで、いちばん残酷なところだった。


「千二百八十七」


 ネージュが言った。


「千二百八十七日。……三年半」


 三年半、この壁を刻みつづけた人間がいる。


「その前は」アッシュが言った。「その人、いつからここにいたんだろう」


「刻みはじめた日から、三年半。刻みはじめるまでに何日かかったかは、わからない」


 数えはじめるまでに、人は何日かかるのだろう。


 最初の何日かは、明日出られると思っている。次の何日かは、来月には、と思っている。そのどちらでもないと腹をくくった日に、はじめて壁を刻む。


 その日が来たことを、この人は覚えているだろうか。


 そして最後の一組は、途中で終わっていた。縦の線が二本だけ。三本目に届かないまま、そこで止まっている。


 アッシュは、その二本の溝に指を当てたまま、動けなくなった。


 止まった理由は、ひとつしかない。


 指は離さなかった。離してしまえば、この二本の線が、誰のものでもなくなる気がした。


 そのとき、暗がりの奥で、何かが動いた。


 衣ずれの音。石の上をこする、乾いた音。それから、長く息を吸う音がした。眠っていた人が、久しぶりに声を出そうとするときの、あの吸い方だった。


 ふたりは同時に身を固くした。


 闇は完全だった。音のしたほうしかわからない。奥、たぶん五歩か六歩。ずっとそこにいたのだ。ふたりが船の話をして、手紙の話をして、泣いているあいだ、ずっと。


 アッシュがとっさにネージュの前に出ようとして、手を引かれて止められた。


 声がした。低く、かすれて、どこか笑いを含んだ声だった。


「……まさか、迎えの船が本当に来るとはね」


 闇の中で、鎖が鳴った。


「アッシュ・レイドルフ。ネージュ・フォンティーヌ」


 男は、ふたりの名を正確に呼んだ。


「待っていたよ。五年、君たちだけを」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。