五 ペンの音
連れていかれたのは、王宮の文書院として使われていた建物だった。
通された部屋には、机がひとつと、椅子がみっつ。壁に棚があり、帳簿が並んでいる。血の跡も、拷問の道具もない。だからこそ、アッシュは背中が寒くなった。ここは、そういうものを必要としないところだ。
窓から夕日が入って、ほこりが光の中で回っていた。
入ってきたのはやせた男で、灰色の上着を着ていた。三十代の後半だろうか。眼鏡の縁を指で押し上げながら、帳簿を開いた。
「記録官のミュラです。手続きを進めます」
名乗ったことに、アッシュは少し驚いた。ここまで、誰も名乗らなかった。
「アッシュ・レイドルフ。ネージュ・フォンティーヌ。オルフェン魔法連邦より帰着。間違いありませんね」
「はい」
「渡航の記録を確認しました。十年前、魔法王国リュミエルの選抜で、費用は王室持ち。……丁寧な記録です。当時の担当は、仕事のできる方だった」
帳簿の一行を指でなぞり、満足げに小さくうなずく。同じ仕事をする者を、ほめる顔だった。
「そうです」ネージュが身を乗り出した。「では、私たちの身分は保証されるはずです。王国の正式な派遣で――」
「リュミエルという国は、もう無い」
ミュラは顔を上げなかった。羽根ペンが、帳簿の上をすべりつづけている。
「五年前の十一月に滅びました。いまこの地は、ガレイド帝国の第一州です。王都アルジャンは、帝都ガレイドと名を改めています」
部屋が静かだった。ペンの走る音がした。
「……嘘だ」アッシュが言った。
「記録です」
「嘘だ。じゃあ父上は。宮廷魔法師団長は」
ミュラの手が、はじめて止まった。
帳簿を閉じ、棚から別の一冊を抜いた。ずいぶん分厚い。背表紙がすり切れて、開きぐせがついている。何度も引かれてきた帳面だった。
指をなめて、ページをめくる。速い。慣れている。
「レイドルフ。……ございました。レイドルフ家。当主、および配偶者」
ページの上で、ペン先が一点を指した。
「十一月二十一日、執行済」
その言葉の意味を飲みこむまでに、アッシュはたっぷりみっつ数えるほどかかった。
飲みこんでも、何も起きなかった。悲しみが来なかった。代わりに、部屋のほこりの粒がやけにはっきり見えた。
「フォンティーヌ。辺境伯家。当主、配偶者、長男、次男、長女、次女」ミュラは読み上げた。「十一月二十三日、執行済。……ああ、三女の欄が空いていますね。行方知れずのままになっている。こちらで直しておきます」
羽根ペンを取り、ネージュの名前の横に、小さく何か書き足した。
事務の音がした。
ネージュは、その音を聞いていた。
姉がふたりいた。上の姉は指が長くて、髪を編むのがうまかった。母よりうまかった。六歳のネージュの髪を編みながら、いつも同じ歌を鼻歌で歌っていた。曲の名前は知らない。いまでも歌える。
その姉が、一行の下から二番目にいる。
「……あの」
声が出た。自分でも驚くくらい、平らな声だった。
「はい」
「あなたは、五年前は何をしていたんですか」
ミュラが顔を上げた。はじめて、まっすぐ彼女を見た。
その目に、用心するような色が浮かんで、すぐに消えた。用心するようなことは何もない、と考えたのだろう。
「記録官です」
「五年前も?」
「ええ。この部屋で。この机で」
机の上を、手のひらで一度なでた。
「王国のころは、税の記録をつけていました。いまは処分の記録です。書き方が変わりましたので、最初の半年は苦労しましたよ。王国の書式は、正直に申し上げて、無駄が多かった」
ネージュは、その言葉を胸の中でもう一度くり返した。
「同じ仕事だと思っているんですか」
「同じ仕事です」
ミュラは眼鏡を押し上げた。
「誰が上にいても、書くべきことは書かれなければなりません。書かなければ、あなたのご家族がいたことすら、五十年後には誰にもわからなくなる。……私はそれを、悪いこととは思っていません」
言い終えると、また帳簿に目を落とした。
新しいページを開き、日付を書き入れる。
「では、処分の区分を決めます。第一種はその日のうちに。第二種は審理待ち。第三種は労役です。おふたりのような帰国者は、前例が少ない。……第二種にしておきます」
「審理」ネージュが言った。「裁判が、あるんですか」
「ございます。年に二度。次は春です」
「半年」
「はい。長くお待たせしますが、こればかりは」
本当に申し訳なさそうな顔だった。それが何よりも悪趣味だった。
「審理で、無罪になることは」
「あります。魔力不能証明が出れば」
「……どうやって証明するんですか」
「魔法院の検分官が、魔力があるかどうかを測ります。もっとも」
ミュラはペンを止めた。
「検分官はみな、魔法使いでしたので。五年前に、全員処分されております」
そう言って、またペンを動かしはじめた。
処分、とミュラは言った。殺した、とは言わなかった。
つまり、証明する方法はない。証明できる人間は、もうひとりも残っていない。
誰もその矛盾を直そうとしない。直す必要がないからだ。第二種に分けられた者は、ただ春を待ち、また次の春を待つ。
「収容は最下層になります。上は埋まっておりますので」
「埋まっている」
「ええ。このところ、多い」
その横顔を見ながら、ネージュは奇妙なことに気がついた。
この男を憎めない。
憎むための取っ手が、どこにもついていない。怒りも、悪意も、信念すらない。ただ、仕事がある。仕事は続く。誰が王でも、誰が皇帝でも。
五年前、この街の人々はきっと、こうやって日々を続けたのだ。
その考えは、処刑の記録よりも深いところに刺さった。
父もそうだったのではないか、と思った。
辺境伯の領地では、毎年、魔力のない者の名簿が作られていた。作っていたのは父ではない。父の下の誰かだ。その誰かもきっと、悪気なく、ていねいに、書式を守って書いていた。
――書くべきことは、書かれなければなりません。
その通りだ、と思ってしまう自分が、いちばん許せなかった。
◇
アッシュの中で何かが切れたのは、そのときだった。
理由は、自分でもわからなかった。処刑の一行ではなかった。「同じ仕事です」でもなかった。ミュラが帳簿の角を指でそろえた、その手つきだった。
熱が出た。
封じ環の内側で魔力が暴れ、行き場をなくして逆に流れこむ。環が真っ赤に色を変え、手首の皮膚が焼ける音がした。机の上の羽根ペンに火がついた。帳簿の端が黒くちぢれ、部屋の空気がゆがむ。ミュラが椅子ごと後ろへ倒れた。
「アッシュ!」
ネージュが彼の腕をつかんだ。冷気が走り、燃えかけた帳簿の上に霜が降りた。炎が縮んで消えた。
だが、それだけだった。ネージュにも、それ以上のことはできなかった。封じ環が、彼女の手首も焼いていた。
扉が開いて、兵がなだれこんできた。アッシュは床に押さえつけられた。頬が石に押しつけられ、視界の端に、同じ目にあっているネージュが見えた。逆らってはいなかった。目だけが、まっすぐアッシュを見ていた。
「やめて」ネージュは言った。誰に言っているのかわからない声だった。「お願いだから、やめて」
ミュラが、倒れた椅子を起こしていた。
眼鏡を拾い、ほこりを払ってかけ直し、焦げた帳簿を確かめて、小さく舌打ちをした。書き直しの手間を数えている音だった。
それから、床のアッシュを見下ろした。
その顔に、怒りはなかった。憎しみもなかった。あったのは、ただ、面倒なものを見る目だった。
「魔法を使いましたね」
「……」
「記録します」
ペンが動いた。
その音を聞きながら、アッシュは思った。この音を、父も聞いたのだろうか。
押さえつけられたまま、首をわずかに回した。
ネージュと目が合った。
唇だけが動いた。声は出ていなかった。
――生きて。
三秒待って、でもなかった。大丈夫、でもなかった。
アッシュはこの十年ではじめて、彼女に本気で怒られた気がした。




