四 削られた星
王都が見えたのは、日が傾いてからだった。
城壁は、覚えているとおりだった。白い石を積み上げた、ゆるやかな曲線。子どものころ、あれは国が眠るときの毛布だと教えられた。誰に教えられたのかは、思い出せない。
ただ、門の上の紋章が削り取られていた。
ていねいにではない。のみの刃を何十回もたたきつけて、星のかたちがわからなくなるまで砕いた跡。削った下から石の地肌が出て、そこだけ色が違う。
そのせいで、傷が、紋章の形に残っていた。
消そうとするほど、形がはっきりする。アッシュはそれを見上げながら、なぜか泣きそうになった。父や母のことでは、泣けなかったのに。
ネージュも同じものを見ていた。考えていたのは、別のことだった。
――消し方を知らなかったんだ。
紋章を消すなら、石を削るのではなく、石ごと入れ替えればいい。それだけのことを、誰も教わっていなかった。教えられる人間は、あの二十日で全員死んだ。
技は、人についている。人を殺せば、技も死ぬ。この国はこれから、ずいぶん不便になるだろう。
そう思った自分が、少しだけいやになった。他人の不便を、ざまを見ろと思う自分がいる。
その気持ちに名前をつけるのがこわくて、目をそらした。
門をくぐった。
街の音はあった。荷車が通り、犬が吠え、どこかで金づちの音がしている。人々は歩き、値切り、笑っていた。壊れた街を思い描いていたぶんだけ、それは残酷だった。ここでは日々が続いている。ふたりの十年が終わった場所で、五年ぶんの日々が積み上がっている。
◇
荷車は、東の坂を登った。
貴族街だった。
ネージュは、その道を覚えていた。夏のあいだだけ一家で過ごす別邸が、坂の途中の三軒目にあった。門に鉄のつたの細工がしてあって、小さいころは、そのつたを数えるのが好きだった。四十三本ある。
三軒目は、まだあった。
門の鉄のつたも、そのままだった。
ただ、門から中庭にかけて、洗濯物が張りわたされていた。
子どもの肌着が七枚。大人のシャツが四枚。つぎの当たった毛布が一枚。中庭の噴水は水を抜かれ、土を入れられて、豆のつるが支柱をはい上がっていた。
玄関先で、三十くらいの女がたらいを洗っていた。腕まくりをして、ずいぶん手際がいい。奥から子どもの声がして、女が何か言い返し、笑った。
荷車が通り過ぎるあいだ、ネージュはその家を見ていた。
憎めない、と思った。
こんなに暮らしの匂いのする家を、どうやって憎めばいいのか、わからなかった。
中庭の豆は、たぶん今年よく実る。土がいいのだ。母がそう言っていた。この家の土はいいから、何を植えても育つのだと。
母は、誰に向かってそれを言っていたのだろう。
あの土を耕したのは、誰だったのだろう。
ネージュは目を閉じた。閉じてから、それは逃げだと思って、また開けた。
◇
坂を下りると、人の数が増えた。
看板の直し方は、店によってばらばらだった。新しく彫り直した店もあれば、古い文字をしっくいで塗りつぶしただけの店もある。塗りつぶしただけの店のほうが多い。誰も本気で消そうとはしていない。ただ、消していないと困るから消してある。
通りの角で、子どもがふたり、木の棒を振り回して遊んでいた。
「お前が魔法使い役やれよ」
「やだよ。負けるもん」
ひとりが棒を突き出し、もうひとりが大げさに倒れた。倒れたほうが、笑い転げている。
その遊びには、十年前は別の名前がついていた。魔王ごっこと呼ばれていた。悪い魔物を、王国の魔法使いが退治する遊びだ。
役が入れ替わっただけで、遊びは同じだった。
中央広場の噴水は、壊れていた。
池にがれきが積まれ、水は来ていない。噴水の真ん中にあったはずの、杖を掲げた初代王の像は、ひざから下だけが残っていた。台座に新しい字が彫ってある。アッシュには読めなかった。文字が違うのではない。彫りが浅すぎたのだ。素人の仕事だった。
ネージュには読めた。「これより人の世」と彫ってあった。
広場の北側に、木で組んだ台があった。
高さは人の背丈ほど。四本の柱と、床板と、階段。板は雨にさらされて灰色になり、ところどころ抜け落ちている。もう五年、誰も直していないのだとわかる。誰も壊してもいないのだとも、わかった。
その台の下で、腰の曲がった男が野菜を売っていた。
台の脚の陰は、日が当たらなくて涼しいのだろう。カブとニンジンが木箱に並べられ、客の女が一本を手に取って、値段の話をしている。老人が何か言って、女が笑った。
アッシュは、そこから目が離せなくなった。
あの板の上で、誰かが死んだ。二十日のあいだ、毎日。そしていま、その下でカブが売られている。
どちらかが間違っているはずだった。どちらも間違っていないことのほうが、ずっと悪かった。
老人が客にカブを渡し、客が去っていった。老人は代金を布の袋にしまい、袋をふところに入れ、それから台の脚に背をもたせかけて、目を閉じた。
休んでいるのだ。あの脚の陰は、この時間、いちばん涼しい。
「見ないで」
ネージュが言った。
「見ないで、アッシュ」
「なんで」
「……三秒」
「三秒たった」
「まだたってない」
その声が、少し高かった。アッシュが横を向くと、ネージュは正面を見たまま、縛られた手を強く握りこんでいた。
指の先が、白を通り越して、青くなりかけている。爪のふちに、細かい霜がついていた。
封じ環をはめられても、なお漏れ出している。
彼女の魔法は、熱を奪う。外に向けられないときは、いちばん近いところから奪う。つまり、自分から。学府の教官に、何度も注意された癖だった。気持ちが揺れると、知らないうちに自分を冷やしてしまう。痛いものを、感じなくするために。
アッシュは、握りこまれたこぶしの上に、自分の手をそっと重ねた。
熱は出せない。ただ、自分のほうが体温が高い、というだけのことだった。
それで足りた。ネージュの指の色が、ゆっくり戻った。
荷車は広場を横切り、台の前を通り過ぎた。老人が顔を上げて、荷台のふたりを見た。
それから、何事もなかったように、カブの山を積み直した。




