三 幌のない荷車
荷車には幌がなかった。
わざとだろう、とネージュは思った。街道を半日。ふたりは縛られた手をひざに置いて、流れていく景色を見せられつづけた。
荷台の隅に、頬に傷のある男が座っていた。名をドルクといった。部下がそう呼ぶのを聞いた。向かいにノイともうひとり、三十前後のやせた兵が乗り、御者台には年かさの男が座っている。
最初の村で、道ばたの女が荷車を見た。荷台のふたりを見て、手首の環を見て、それから何も言わずに家の戸を閉めた。
二番目の村では、子どもが石を投げた。当たりはしなかった。母親が走ってきて子どもの腕をつかみ、引きずっていった。叱っているようには聞こえなかった。「見るな」と言っていた。
三番目の村はなかった。
焼けた石積みと、伸びきった草があるだけだった。
「ここ」アッシュが口を開いた。「ここ、ルヴェールじゃないか」
ネージュは答えなかった。答えたくなかった。ルヴェールは、六歳の自分が馬車で通った村だ。水車小屋があって、パンの匂いがして、父が窓から硬貨を投げた。投げたのは施しではなく通行料だったと、あとで聞かされた。
水車小屋の軸だけが、黒焦げになって草の中に立っていた。
「ここは、蜂起で焼けたんじゃない」
そう言ったのはドルクだった。ふたりのほうを見ずに、草原のほうを見ている。
「三年前だ」
「……蜂起?」
アッシュが聞き返した。ドルクは答えなかった。いまさら説明するようなことだとは、思っていない顔だった。
「税が払えんと言った。それだけだ」
やせた兵が、居心地悪そうに座り直した。ノイはひざの上で手を握っていた。
「団長は焼けとは言ってない」やせた兵が、誰にともなく言った。「見せしめにしろと言っただけで」
「同じことだ」
「同じじゃない」
「じゃあお前、何が違うのか言ってみろ」
やせた兵は黙った。
荷車の車輪が、石をかんで跳ねた。
◇
街道が丘を回りこむと、右手に採石場が開けた。
白い岩肌が階段のように削られ、底のほうで人が動いている。遠いので豆粒ほどにしか見えないが、数は多い。百人はいるだろう。滑車のきしむ音と、石を打つ音が、少し遅れて届いてきた。
荷台の上で、ドルクがはじめて姿勢を変えた。
その斜面を、長いこと見ていた。
「あそこにいた」
誰に聞かせるふうでもなかった。
「十四から二十九まで。十五年だ」
ネージュは思わず彼の横顔を見た。
「一日に石を六十。運べなければ飯が減る。減れば運べなくなる。運べなくなれば、次の月には人数から外される」
「外されると、どうなるんですか」
「どうにもならん。村に帰るだけだ。帰った先に、食い物がないだけだ」
淡々とした声だった。恨みはこもっていない。天気の話をするのと、同じ速さだった。
「あそこにいる連中は、いまは日に四十でいい。飯も出る。……そういう国になった」
「その代わりに、私の家族から、何を取ったんですか」
言ってしまってから、ネージュは自分の声の冷たさに驚いた。聞きたくない答えに、自分から手を伸ばすような聞き方だった。
ドルクは怒らなかった。採石場のほうを見たまま、少しだけ首をかたむけた。
「お前さんの家の名は、俺は知らん」
「フォンティーヌです」
「知らん。辺境伯だろうと何だろうと、俺には関係のない名前だ」
それから、はじめてネージュのほうを向いた。
「だが、うちの親父を鉱山に送る署名をした役人の名前は、いまでも言える」
荷車が丘を越えて、採石場が見えなくなった。
アッシュは、その会話をずっと聞いていた。
言い返したいことが、喉の奥にみっつもよっつもあった。だがひとつも形にならなかった。どれも「俺の父は違う」から始まってしまい、それがこの男にとって何の意味も持たないことが、聞かなくてもわかった。
◇
それからしばらく、兵たちはふたりがいないかのように話した。
話はたわいもなかった。給金の遅れ、東の砦に回されるといううわさ、誰それがどこの女と、といった話。だがそのすき間から、五年ぶんの出来事がこぼれ落ちてきた。
ネージュは、それをひとつずつ拾って並べた。
――五年前の十一月、蜂起。
――先頭に立った男の名はゼド。もとは採石場で働いていたという。
――王都は三日で落ちた。宮廷の魔法師団は戦ったが、数が違いすぎた。
――処刑は十一月の二十日から、二十日ほど続いた。広場で。毎日。
――ゼドは皇帝になった。国の名はガレイド。彼の生まれた村の名だという。
――蜂起に加わった者は騎士になり、税を取られなくなり、土地をもらった。
――三年前、ヴィスタ王国を手に入れた。二年前、ミレー公国も。
――来年の春、三つの国へ同時に攻めこむ予定。
――処刑を仕切ったのはガルシュという男。いまの騎士団長。
――あの人はもとは採石場の監督で、字も読めなかった。
――いまは読めるのか。
――読めるようになったさ。読めなきゃ命令書が読めん。
ネージュは荷台の床の木目を見ながら、それを頭の中で年表にしていった。気持ちをはさまずにやった。はさめば、手が止まる。ドルクが口にした「蜂起」という言葉は、その年表のいちばん上に来た。
ひとつだけ、どうしてもわからない話があった。
「――で、皇帝陛下がまた新しい馬を欲しがってるらしいぞ」
「馬? 陛下は馬になんぞ乗らんだろう」
「乗らんよ。だからわからんのだ。月に何頭も城の馬小屋に入って、出てこない」
「病気でも調べてるんじゃないのか」
笑い声が起きて、話は流れていった。
ネージュは、そのひとつだけを年表の外に置いた。置き場所がわからなかったからだ。
◇
アッシュは、ほとんど何も聞いていなかった。
正確には、聞こえてはいた。だが言葉が意味にならなかった。十一月。処刑。二十日。それらの音が耳の中ですべって、どこにも引っかからずに落ちていく。
その代わり、ずっとひとつのことを考えていた。
父は、抵抗しただろうか。
宮廷魔法師団長、レイドルフ。記憶の中の父は、魔法を人に向けたことのない人だった。六歳の息子に最初に教えたのは、火のおこし方ではなく、火の消し方だった。「灼くより消すほうが難しい」と父は言った。「難しいほうを先に覚えろ」
あの人は、その三日のあいだ、何をしていたのだろう。
ひざの上で、縛られた手が震えていた。震えを止めようとして、もっと震えた。
隣で、ネージュが自分の手をそっとずらして、彼の手の甲に重ねた。
何も言わなかった。彼女の手も震えていた。ふたつの震えが重なると、少しだけ、そろった。




