二 欠けた器
港町の名が変わっていた。
防波堤のつけ根に立つ石に、ふたりの知らない名前が彫られていた。ヴェルヌ。もとは聖アルジェの港と呼ばれていた場所だ。聖人の名前をもらっていた港は、五年のうちに、誰の名前でもない呼び名に変わっていた。
聖アルジェは、不作の年に自分の蔵を開いた司祭の名だ。六歳のネージュは、その話を父から聞かされた。施しをした側の、いい話として聞かされた。
いまになって思う。あの話には、施しを受けた側の名前が、ひとつも出てこなかった。
連れていかれる道すがら、誰もふたりを見なかった。
それは、無関心とは違った。網をつくろう手が止まり、樽を転がす音が消え、そして全員がそろって別のほうを向く。見ないということに、みんなが慣れていた。慣れるほど何度も、これがくり返されてきたということだ。
ひとりだけ、目が合った。
路地の入口に立っていた、中年の女だった。ネージュの顔を見て、次に手首の環を見て、それから口の形だけで何か言った。声は出さなかった。
――かわいそうに。
そう言ったように、ネージュには見えた。
同情されている。自分たちが。
そのことが、この五年で何が起きたのかを、どんな説明よりもはっきりと伝えてきた。
◇
詰所は、もとは港の役所だった建物を使っていた。
石造りの、天井の高い部屋。壁ぎわに机がみっつ。窓の格子は新しく、外から打ちつけたばかりの木の色をしていた。前はこの部屋に、出入りする船の模型が並んでいたはずだ。棚のほこりの跡が、模型の形に残っていた。
壁には、船の出入りを書きこむための黒い板が残っていた。文字は消されていたが、表の線だけが白く残っている。誰かがていねいに引いた線だった。
ふたりは長椅子に並んで座らされた。
座面に、細い傷があった。
爪ではない。金具か、石のかけらか。ネージュは指でなぞって、それが文字だと気づいた。
――ちがう。
それだけだった。彫りかけて、途中でやめたのか、やめさせられたのか。
何が違ったのだろう。人違いか、罪のことか、それとも、世界のほうか。
正面の壁に、掲示板がある。
布告や手配書が何層にも重なって貼られ、古いものの角だけが、下からはみ出している。いちばん上の紙は先月の日付で、魔法使いをかくまった者への罰が書かれていた。
ネージュの目が、その下の一枚で止まった。
黄ばんで、四隅が丸くなった紙。文字が薄れかけている。ずいぶん古い。はがされないまま、上から何度も紙を貼られて、それでも下からのぞいている。
名前がふたつ、書いてあった。
アッシュ・レイドルフ。ネージュ・フォンティーヌ。
年齢の欄は、十一歳と十一歳。
「……アッシュ」
「うん。見えてる」
ふたりは、五年前から手配されていた。
六歳で国を出た子どもが、十一歳になったところで、名前だけが紙に載せられた。そして誰かがそれをはがさずに、五年間、上から紙を貼りつづけた。
待たれていたのだ。ずっと。
アッシュは掲示板から目をそらせなかった。父や母がもういないかもしれない、ということは、まだ形を持っていなかった。だがこの紙は形を持っていた。自分の名前が罪人として、五年間、この壁で待っていた。
喉の奥が熱くなる。環の内側で、魔力が渦を巻いた。
「三秒」
ネージュが小さく言った。
「……」
「三秒だけ。お願い」
アッシュは息を吸って、吐いた。環の温度が下がった。
◇
水を運んできたのは、桟橋にいたあの若い兵だった。
縁の欠けた器をふたつ、盆に載せている。盆が細かく震えていた。長椅子の前にしゃがんで器を床に置こうとし、置き場所を決めかねて、二度置き直した。
「……どうぞ」
ふたりを見ていた。目をそらさずに。この街で、まともに目を合わせたふたり目の人間だった。
「ありがとう」ネージュが言った。
少年の肩が、びくりと動いた。礼を言われると思っていなかったらしい。
「あの……あんたたち、本当に、十年も海の向こうにいたのか」
「本当だよ」
「じゃあ……何も、知らないのか」
その聞き方で、ネージュは覚悟を決めなければならないとわかった。
「何を知らないのか、教えてもらっていいですか」
少年は口を開いた。開いたまま、言葉を探して、探しきれずに閉じた。若い顔に、とまどいと、あわれみと、それからはっきりとしたおびえが、いっぺんに浮かんでいた。
「ノイ」
奥から、頬に傷のある男の声が飛んだ。
「戻れ」
少年は立ち上がった。盆を抱えて、二歩下がって、それから小さく言った。
「……悪く思わないでくれ」
誰に向けた言葉なのか、本人にもわかっていないようだった。
ノイが出ていったあと、ネージュは小さく言った。
「あの子、たぶん、私たちと同じ歳」
「そうだな」
「五年前は十一歳。……十一歳の子が、何を選べたと思う」
アッシュは答えなかった。
答えの代わりに、掲示板の古い紙をもう一度見た。自分の名前が、十一歳のまま、そこで止まっている。
五年前、あの少年も自分も、十一歳だった。海をはさんで、ひとりは槍を渡され、ひとりは魔法を教わった。
それだけの違いしかない。
◇
残された器の水は生ぬるく、かすかに鉄の味がした。それでもふたりは飲みほした。二週間ぶりの、陸の水だった。
飲み終えてから、ネージュは器を両手で持ったまま、しばらく動かなかった。
「どうした」
「……この器、王国のものだよ」
縁の内側に、色のあせた青い線が一本入っている。王家に器を納めていた窯の印だった。子どものころ、屋敷の食器棚にいくらでもあった。
欠けて、詰所の床に置かれて、囚人に水を出すのに使われている。
「物は、生き残るんだね」




