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炎と氷の帰還者――魔法が罪になった祖国で  作者: parupuntist
第一章 異端

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2/18

一 渡し板

 妙な問いだった。


「降りますけど」アッシュは面くらって答えた。「そのために乗ったので」


 船長はうなずいた。納得したふうではなかった。それから上着の内側に手を入れ、革袋を出して、手すりの上に置いた。船賃の釣りだった。


「取っておけ」


「多すぎます」


「取っておけ」


 もう、ふたりのほうは見なかった。舵に戻り、背中を向けたまま、港へ入る指示を出しはじめた。声が、それまでより大きかった。


 ネージュは革袋を見ていた。中身は数えなかった。数えなくてもわかる。これは釣りではない。


 ――何に対する詫び賃だろう。


 その問いは、口に出さなかった。口に出せば、答えが形を持ってしまう気がした。


◇


 渡し板が下ろされる音を、アッシュは一生忘れないだろうと思った。


 木と鉄がぶつかる、なんでもない音だった。十年前、この同じ板を六歳の自分が渡った。父が手を振っていた。母がハンカチを口に当ててい 陸が見えたとき、船長が舵から手を離した。


 六十に近い、あごひげの白い男だった。航海のあいだ、ほとんど口をきかなかった。食事のときに天気の話をするくらいで、こちらが故郷の話を始めると、決まって甲板の別のところへ行ってしまう。そういう性分なのだと、ふたりは思っていた。


 その船長が、こちらへ歩いてきた。


「……降りるのか」


た。板は同じ角度で桟橋にかかり、同じきしみ方をした。


 違うのは、板の向こうに並んでいるものだけだ。


 十二人。うち八人が槍、四人が剣。全員が黒い外套を着て、胸には交差した二本の剣の印をつけている。きちんと並んではいない。騎士の隊列というより、港の荷運びが横一列になったような、雑なかたまり方だった。だが穂先だけは、まっすぐ船べりを向いていた。


 背後で、船員たちの物音が消えていた。


 アッシュは板を渡った。ネージュが半歩遅れてついてきた。


「名を」


 いちばん前の男が言った。四十がらみで、頬に古い切り傷がある。声は張っていないのに、やけに通った。


「アッシュ・レイドルフ」


「ネージュ・フォンティーヌ」


 空気が変わった。


 それは、魔力の流れが変わるのに似ていた。十二人の息がいっせいに浅くなり、後ろの列の若い槍が足を半歩引き、それからまた前に出した。金属のこすれる音が波のように広がって、収まった。


 頬に傷のある男が、ゆっくりと息を吐いた。


「……本当に来やがった」


 その言い方に、アッシュは引っかかった。来るかもしれないと思っていた者の言い方だ。誰かがずっと、待っていたということだ。


「あの」ネージュが言った。「私たち、オルフェンからの留学生です。帰国の許可証はこちらに――」


「両手を前に出せ」


「聞いてください。フォンティーヌ辺境伯家の使いが来ているはずです。十年たったら迎えをよこすと、父が約束して――」


「両手を前に出せ」


 男は同じ調子でくり返した。腹が立っているふうでも、急いでいるふうでもない。何十回も同じことを言ってきた人の言い方だった。


 アッシュの右の指先で、空気が鳴った。


 わざとではない。十年で体にしみついた反射だ。前に出せば熱が出る。学府の演習場でも、試合でも、それで何度も勝ってきた。指先のまわりの空気がかげろうのように揺れ、桟橋の板の表面が白く乾いていく。


 誰も気づいていない。


 十二人の誰ひとり、それを見ていない。魔法を見たことがない人間には、熱が見えないのだ。


 それが、どういうことか。


 視界の端で、後ろの列の若い槍兵が持ち手を握り直した。少年だった。自分と同い年か、下かもしれない。顔が白い。指の関節が白い。柄を握る手は、震えているのを隠すために、強く握られている。


 いま撃てば。


 この距離で、この強さで撃てば、あの少年は炭になる。前の列の四人も助からない。板が焼け落ちて、残りは海に落ちる。十二人。十二人だ。十年かけて学んだことの答えは、その程度の計算なら一瞬ですむ、ということだった。


 勝てる。なんの疑いもなく勝てる。


 そう思えることが、はじめてこわかった。


 ネージュの手が、アッシュの手首に触れた。


 冷たかった。氷ではない。ただ、この場でいちばん冷静な体温だった。


「三秒待って」


 ネージュは前を向いたまま、そう言った。それから、両手を前に出した。


 アッシュは奥歯をかんだ。指先のかげろうが消えた。桟橋の板には、白く乾いた跡だけが残った。


 重い金属の環が、手首にはめられた。ずしりとくる。鉛のように重いが、色はもっと黒い。見たことのない金属だった。内側に何かが塗りこめてあって、触れたとたん、体の中を流れているものがにごった。魔力の通り道に、泥を流しこまれたような感じだった。


 ためしに、ほんの少し熱を出してみる。出た。出たが、外へ抜けない。環の内側にたまって、じわりと金属がぬるくなる。


 なるほど、と思った。ふさぐのではなく、行き先を奪う仕掛けだ。


「……封じ環」ネージュがつぶやいた。「こんなもの、王国にはなかった」


「五年前まではな」


 頬に傷のある男が答えた。そして、はじめてふたりの顔をまともに見た。


「魔法を使ったな」


「使っていません」アッシュが言った。「一度も」


 男はうなずいた。同意ではなかった。


「使えることが罪だ」


◇


 背後で、船が離れていく音がした。


 アッシュは振り返らなかった。振り返れば、船長が舵を握ったまま前だけを見ているのが、見えてしまう。あの革袋の重さの意味が、そこで決まってしまう。


 代わりに、頬に傷のある男に聞いた。


「宮廷魔法師団長のレイドルフは、どこにいますか」


 男の動きが、一拍止まった。


 ほんの一拍だった。すぐに縄の結び目を確かめる作業に戻り、部下に何か短く言いつけた。


 答えなかった。


 答えなかったということが、答えだった。


 アッシュはそれを理解して、理解したことを、体のいちばん奥に押しこんだ。いま開けてはいけない。開ければ、この十二人が死ぬ。


 ネージュが、彼の袖を二度つまんだ。


 ――わかってる。私も、あの人が答えないのを見てた。


 十年ぶんの合図が、それだけで通じた。


◇


 桟橋を歩かされながら、ネージュは港を見ていた。


 石畳は、覚えているより白い。塩をまいたのだろう。荷揚げ用の巻き上げ機が三台、新しくなっていた。前は二台だった。倉庫の壁には、見たことのないやり方で番号がふられている。


 滅びた国の港ではなかった。よく働いている港だった。


 それが、いちばんこたえた。


 この五年、ここでは誰も困っていない。

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