一 渡し板
妙な問いだった。
「降りますけど」アッシュは面くらって答えた。「そのために乗ったので」
船長はうなずいた。納得したふうではなかった。それから上着の内側に手を入れ、革袋を出して、手すりの上に置いた。船賃の釣りだった。
「取っておけ」
「多すぎます」
「取っておけ」
もう、ふたりのほうは見なかった。舵に戻り、背中を向けたまま、港へ入る指示を出しはじめた。声が、それまでより大きかった。
ネージュは革袋を見ていた。中身は数えなかった。数えなくてもわかる。これは釣りではない。
――何に対する詫び賃だろう。
その問いは、口に出さなかった。口に出せば、答えが形を持ってしまう気がした。
◇
渡し板が下ろされる音を、アッシュは一生忘れないだろうと思った。
木と鉄がぶつかる、なんでもない音だった。十年前、この同じ板を六歳の自分が渡った。父が手を振っていた。母がハンカチを口に当ててい 陸が見えたとき、船長が舵から手を離した。
六十に近い、あごひげの白い男だった。航海のあいだ、ほとんど口をきかなかった。食事のときに天気の話をするくらいで、こちらが故郷の話を始めると、決まって甲板の別のところへ行ってしまう。そういう性分なのだと、ふたりは思っていた。
その船長が、こちらへ歩いてきた。
「……降りるのか」
た。板は同じ角度で桟橋にかかり、同じきしみ方をした。
違うのは、板の向こうに並んでいるものだけだ。
十二人。うち八人が槍、四人が剣。全員が黒い外套を着て、胸には交差した二本の剣の印をつけている。きちんと並んではいない。騎士の隊列というより、港の荷運びが横一列になったような、雑なかたまり方だった。だが穂先だけは、まっすぐ船べりを向いていた。
背後で、船員たちの物音が消えていた。
アッシュは板を渡った。ネージュが半歩遅れてついてきた。
「名を」
いちばん前の男が言った。四十がらみで、頬に古い切り傷がある。声は張っていないのに、やけに通った。
「アッシュ・レイドルフ」
「ネージュ・フォンティーヌ」
空気が変わった。
それは、魔力の流れが変わるのに似ていた。十二人の息がいっせいに浅くなり、後ろの列の若い槍が足を半歩引き、それからまた前に出した。金属のこすれる音が波のように広がって、収まった。
頬に傷のある男が、ゆっくりと息を吐いた。
「……本当に来やがった」
その言い方に、アッシュは引っかかった。来るかもしれないと思っていた者の言い方だ。誰かがずっと、待っていたということだ。
「あの」ネージュが言った。「私たち、オルフェンからの留学生です。帰国の許可証はこちらに――」
「両手を前に出せ」
「聞いてください。フォンティーヌ辺境伯家の使いが来ているはずです。十年たったら迎えをよこすと、父が約束して――」
「両手を前に出せ」
男は同じ調子でくり返した。腹が立っているふうでも、急いでいるふうでもない。何十回も同じことを言ってきた人の言い方だった。
アッシュの右の指先で、空気が鳴った。
わざとではない。十年で体にしみついた反射だ。前に出せば熱が出る。学府の演習場でも、試合でも、それで何度も勝ってきた。指先のまわりの空気がかげろうのように揺れ、桟橋の板の表面が白く乾いていく。
誰も気づいていない。
十二人の誰ひとり、それを見ていない。魔法を見たことがない人間には、熱が見えないのだ。
それが、どういうことか。
視界の端で、後ろの列の若い槍兵が持ち手を握り直した。少年だった。自分と同い年か、下かもしれない。顔が白い。指の関節が白い。柄を握る手は、震えているのを隠すために、強く握られている。
いま撃てば。
この距離で、この強さで撃てば、あの少年は炭になる。前の列の四人も助からない。板が焼け落ちて、残りは海に落ちる。十二人。十二人だ。十年かけて学んだことの答えは、その程度の計算なら一瞬ですむ、ということだった。
勝てる。なんの疑いもなく勝てる。
そう思えることが、はじめてこわかった。
ネージュの手が、アッシュの手首に触れた。
冷たかった。氷ではない。ただ、この場でいちばん冷静な体温だった。
「三秒待って」
ネージュは前を向いたまま、そう言った。それから、両手を前に出した。
アッシュは奥歯をかんだ。指先のかげろうが消えた。桟橋の板には、白く乾いた跡だけが残った。
重い金属の環が、手首にはめられた。ずしりとくる。鉛のように重いが、色はもっと黒い。見たことのない金属だった。内側に何かが塗りこめてあって、触れたとたん、体の中を流れているものがにごった。魔力の通り道に、泥を流しこまれたような感じだった。
ためしに、ほんの少し熱を出してみる。出た。出たが、外へ抜けない。環の内側にたまって、じわりと金属がぬるくなる。
なるほど、と思った。ふさぐのではなく、行き先を奪う仕掛けだ。
「……封じ環」ネージュがつぶやいた。「こんなもの、王国にはなかった」
「五年前まではな」
頬に傷のある男が答えた。そして、はじめてふたりの顔をまともに見た。
「魔法を使ったな」
「使っていません」アッシュが言った。「一度も」
男はうなずいた。同意ではなかった。
「使えることが罪だ」
◇
背後で、船が離れていく音がした。
アッシュは振り返らなかった。振り返れば、船長が舵を握ったまま前だけを見ているのが、見えてしまう。あの革袋の重さの意味が、そこで決まってしまう。
代わりに、頬に傷のある男に聞いた。
「宮廷魔法師団長のレイドルフは、どこにいますか」
男の動きが、一拍止まった。
ほんの一拍だった。すぐに縄の結び目を確かめる作業に戻り、部下に何か短く言いつけた。
答えなかった。
答えなかったということが、答えだった。
アッシュはそれを理解して、理解したことを、体のいちばん奥に押しこんだ。いま開けてはいけない。開ければ、この十二人が死ぬ。
ネージュが、彼の袖を二度つまんだ。
――わかってる。私も、あの人が答えないのを見てた。
十年ぶんの合図が、それだけで通じた。
◇
桟橋を歩かされながら、ネージュは港を見ていた。
石畳は、覚えているより白い。塩をまいたのだろう。荷揚げ用の巻き上げ機が三台、新しくなっていた。前は二台だった。倉庫の壁には、見たことのないやり方で番号がふられている。
滅びた国の港ではなかった。よく働いている港だった。
それが、いちばんこたえた。
この五年、ここでは誰も困っていない。




